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吉田松陰 [雑学]

(この当時の長州藩の)こういう空気の流通と陽あたりのよさが、松陰の人間のなりたちに大きく影響している。  むしろ影響しすぎた。松陰はのちひろい天下に出るが、出たとき、幕府もまたこのように物分かりがいいであろうという人のよさが心のどこかにすわっており、そういう楽天性が、百の挫折にも撓(たわ)まなかった生涯をかれにおくらせたともいえる。

世に棲む日日〈1〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/03)
P40

スライド28 (Small).JPG 松陰神社

新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/03/10
  • メディア: 文庫

P35
(住人注;密航を企て、ペリーの黒船に乗り込むために)磯までおりて闇を見すかすと、なんと砂の上に二そうも舟があった。
「天は、ようやく、我等に味方してくれたようだ」
 闇の中で、松陰は可憐なほどの声をあげた。この時代、読書人たちはみな天という概念の信者であった。天とは絶対者というべきであろう。さらにいえば、松陰らの教養である朱子学にあっては宇宙の原理そのものを天と言い、人生もまた天という大いなる原理のなかにつつみこまれていた。松陰はようやく天の意志を感じた。うまくゆくかもしれなかった。

P163
「僕(住人注;江戸で吟味をうけた松陰)は去年の冬以来、死というものが大いにわかった。死は好むべきものにあらず、同時ににくむべきものでもない。やるだけのことをやったあと心が安んずるものだが、そこがすなわち死所だ、ということである
。 さらにいまの私の心境は死して不朽の見込みあらばいつでも死んでいい。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

P243
松陰は晩年、 「思想を維持する精神は、狂気でなければならない」
と、ついに思想の本質を悟るにいたった。思想という虚構は、正気のままでは単なる幻想であり、大うそにしかすぎないが、それを狂気によって維持するとき、はじめて世をうごかす実体になりうるということを、松陰は知ったらしい。 

世に棲む日日〈2〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/03)

新装版 世に棲む日日 (2) (文春文庫)

新装版 世に棲む日日 (2) (文春文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/03/10
  • メディア: 文庫

P158
 一人の藩士が亡命の罪を得て禄を失うというのは、平穏だった藩内に波紋を投げかける事件であり、、しかもその本人は藩主に兵学を進講するほどの立場にある人物だ。
重臣をはじめ多くの人々が、どうしても理解できないのは、友人との約束を守るために、あえて藩の規則を犯し、自己の身分をなげうつというその奇矯な行為であった。彼らはそのことを「本末転倒」だと考えるのである。
 しかし、大次郎(住人注;吉田松陰)の主意的世界では、それは決して矛盾しないのである。以後の彼の行動すべてが、常人の理解を超えたところで展開されたといってよい。だが、第三者の目には、奇矯であり、狂的にさえ見えた。   

P172
”下田踏海”の失敗を、松陰は嘆いている。しかし、松陰が無事海外に渡り、数年後に新しい知識を身につけて帰るよりも、踏海に挫折した彼が、萩に押し込められ、松下村塾に英才を育てたことの方が、よほど歴史を動かす力にはなり得たということである。
教師としての松陰に与えられる使命は、倒幕の戦列に奔走する戦士の養成であり、革命の遺志を彼らに付託することであった。

P173
(住人注;萩の上牢の)野山獄での松陰は、「獄舎問答」に記録されているように、囚人たちを相手に外交問題、国防、民政などを中心に対話を進め、さらに「孟子」の講義へと発展した。
また、「獄中俳諧」と称する句会を催し、獄内の空気は松陰の入獄によって一変した。
あたかも学校の観を呈したといわれるほどである。宿命的な教師であった松陰の生き方は、時と場所を問わず不思議な力をもって展開され、そこにいる人々をひきつけずにはおかなかった。

P181
 松陰は言う。「僕は毛利家の臣なり。故に日夜毛利に奉公することを練磨するなり、毛利家は天子の臣なり。故に日夜天子に奉公するなり。
吾等国主に忠勤するは即ち天子に忠勤するなり」。そして毛利家や幕府に非がある場合は諫主・諫幕のために、「一誠兆人を感ぜしめ」ようというのであった。
誠を尽くしてそれに感じない者はいないというのだ。至誠とは死ぬまで松陰が貫いた態度だった。

P215
 吉田松陰は、門弟高杉晋作に教えた「死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよし」という死生観そのままに、三十歳で不朽の死をとげた。
それは殺されることによって、不朽の死を得たのであり、さらにいえば、受難者像を確立することで、生前の叫びに強い説得力を付加したのだ。
 もともと悲劇とは、受難とそれへの果敢な闘いをとらえる厳粛な演技によって、悲壮崇高な人生をえがこうとするものである。
 かつて松陰は間部要撃策をとがめられ萩で下獄したとき、自分から離れていく門下生たちをながめながら「我が輩、皆に先駆けて死んで見せたら観感して起るものもあらん」と悲痛な文言を吐いたが、まさにその厳粛な演技を意識した言葉であろう。
「留魂録」の冷静周到な達意の遺言は、それに対応するものだといってよいのかもしれない。処刑されて死んでみせることは、教師としてのア・プリオリな資質を備える松陰の、最後の垂訓であり、「留魂録」は松陰につづこうとする志士たちの聖書として作用した。

吉田松陰 留魂録
  古川 薫 (著)
  講談社 (2002/9/10)
 

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

  • 作者: 古川 薫
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2002/09/10
  • メディア: 文庫

 松陰は一一歳のときにはもう藩主に御前講義をするところまで知的成長を遂げるわけですけれど、学問を始めてわずか数年でそのレベルに達するというのは、勉強したコンテンツの量の問題ではありません。どれほど想定外の情報入力が流れ込んできても、まるごと受け止めて、自分自身の知的スキームを組み替えることができるような恐るべき知的柔軟性を松陰が身につけていたということでしょう。

最終講義 生き延びるための七講
内田 樹 (著)
文藝春秋 (2015/6/10)
P234



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