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釈迦の仏教 [宗教]

釈迦の教えには、現代でこそその価値を発揮するすぐれた特性が含まれているが、それは業や輪廻といった神秘的要素とは別のところ、つまり「世界の現象を法則性によってとらえ、その法則性に沿ったかたちで自分の精神構造を改良し、それによって死の苦痛を取り除く」という一点にある。
それはいかなる怪しい神秘も含まない、科学的世界観と同一線上にあるものの見方であり、そこにこそ、仏教独自の価値があるのだ。

生物学者と仏教学者 七つの対論
斎藤 成也 (著), 佐々木 閑 (著)
ウェッジ (2009/11)
P114

IMG_0041 (Small).JPG大正屋椎葉山荘

P149
仏教が目指すのは、輪廻の鎖を断ち切って、二度と生まれ変わらない状態、すなわち涅槃に入ることなのだ。つまりこうだ。
「良い行為を行うと、楽なところに生まれるが、それも輪廻の一部にすぎないから、仏教の目指す涅槃には入れない。
好い行為だろうが悪い行為だろうが、なにをやったって我々は輪廻してしまう。この世に輪廻を止める方法などない」という絶望的状況の中で、仏教は次のように言う。
「そのとおり。良かろうが悪かろうが、とにかくなんらかの善悪行を行なえば、我々は輪廻してしまう。もしそこから逃れたいと思うなら、一切の悪行も、一切の善行も離れて、自分を完全なニュートラル状態にせよ。そうすれば輪廻は終わる。
だが我々の心の中には、煩悩という要素があって、それが心を動揺させ、様々な行為を無理矢理引き起こしてしまう。
自分をニュートラルにするには、その煩悩を完全に消し去らねばならない。それが修行の道である。だから、涅槃を望む者は、出家して、修行のための特別な生活に入れ。そしてその生活の中で、煩悩を少しずつ消して涅槃を目指せ」。

P151
 絶対者を認めるか認めないか、その違いは、各宗教の善悪観の、最も根底まで影響する。西洋の哲学者が、仏教の教えに触れて恐れおののいた、という話はよく聞くが、それももっともである。
日常的な善悪の両方を、「本質的な悪」として振り捨て、虚無的状態を最高善として目指す仏教のあり方は、神との契約によって永遠の快楽を獲得しようという一神教の世界観とは、全く相容れないものだからである。

P176
釈迦の仏教の目的は、その機械論的因果関係の本質を解明し、それに沿った形で自己の精神構造を変革していくことにある。
その改革が完成して、一切の好ましからざる要素が心の中から消滅した段階が最終のゴールである。
そこにはいかなる神秘的存在も関与しない。すべては「法則性で動く非情の世界の中に生きる我々が、自己の努力で、より良い状況を切り拓いていく世界」なのだ。

P179
釈迦は、「老いや病や死をなくそう」とは思わなかった。ここが釈迦の真骨頂である。
そんなことは不可能だと、最初から見抜いていたのだ。~中略~
外的原因としての老いと病と死が除去不可能なものであるから、その苦しみから逃れるには、外的原因によって喚起され、種々の過程を経て最終的に「苦」を生み出す、我々の内部にある精神作用を改造するしかないと考えた。
佐々木 閑


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