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心身一如 [言葉]

  毎日、生きているときは、心身はみな相関しているの。と言うより「心身一如」なの。
「よし、歩こう」という意志があって、足がこう出て、身体が動いて、それで心が身体を動かしているというのじゃないの。ただ歩いているだけなんです。
 この、生きている姿と言うのは心身一如なんだけれども、これを観察する、別の言葉で言うと、これを記述する、客観的にそれを観察し記述しようとすると、その瞬間に、この生きているありようが心と身体に分かれた像になってしまうわけ。心と身体を分けずに観察し、論ずるということは不可能なの。
~中略~
 じゃあ何も考えないで、「無心に」と言うのは、たとえば何か怖いものがわあっと追いかけて来たとき「きゃー」とか言って逃げるときには、「今、恐怖にかられてわたくしは手足を動かしているが、もっと一所懸命に、この恐怖に見合うぐらいにたくさん手足を動かさなければならない」とか思いながら逃げたりしないよ。
ただ「ぎゃー」とか言って逃げるだけなの、それは心身一如なの。
~中略~
 心身一如には、こういうことがあるよ。「身につく」という言葉を知っているでしょ。普通に使う。「身につく」というのは、何か本を読んだり、誰かに教えてもらったりして、「こういうふうにやって、これはこういう意味でするんだ」と覚えて、それに沿って体を動かしているときは、心身は切れているわけ。
~中略~
それがもう、「左ジャブ、右フック」とかいうようなことを考えないで、身体が自然に動くようになったのを「身についた」と言うのね。

神田橋條治 医学部講義
神田橋 條治 (著), 黒木 俊秀 (編集), かしま えりこ (編集)
創元社; 初版 (2013/9/3)
P273

神田橋條治 医学部講義

神田橋條治 医学部講義

  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2015/04/17
  • メディア: Kindle版

 

DSC_3725 (Small).JPG英彦山 望雲台

P275
 これは自分というものを変化させるときには天才以外はみんな、そうしているの。心身一如を変えるときには、これをいっぺん「心」と「身」にばらして、修正する。そして修正するときは「心」と「身」との関係は相関じゃなくて、こっちがこっちを指導したり、こっちがこっちに反逆したりして、相克と互助の関係があって、それは調和したときに「心身一如」に変わっていって、完成するわけ。ゴルフでも他のスポーツでもすべてそうなの。それが人のパターンの完成なの。
 そういう何かを身につけていく過程、本当は分かれていないんだけど、一応、仮に、「心」と「身」とを分けて考えて、それを互いにこちらを修正したり、あちらを修正したりして、またそれを溶け合せて、もととはちょっと違う「心身一如」にしていく過程が、人間が生きていくなかでどうしても必要になってくるわけ。
~中略~
 ところが人間は環境が、あっちに行ったり、こっちに行ったり、大学生になったり、大学に入らんかったり、職人になったり、環境が全然違ってくるもんだから、周りを見よう見まねでやっていくという、いわゆる心身一如での成長ということでは追いつかなくなる。そういうことが人間の生活では多いわけ。
 そうすると何か新しい適応パターンを、その環境に適応するために作らないといかん。そこで心身を分けて観察して、体を変える、あるいは心を変えるという形でやって、これが身についてくればまた、ここでパターンが変わる。
ここに精神療法というものが登場するわけです。

 

神田橋條治 医学部講義

神田橋條治 医学部講義

  • 出版社/メーカー: 創元社
  • 発売日: 2015/04/17
  • メディア: Kindle版

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