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蒲生 [日本(人)]

  この百済亡国のあと、おそらく万をもって数える人たちが日本に移ってきたであろう。
私的にきた者は北九州や山陰あたりに住んだかもしれないが、鬼室集斯のような王族の場合は一族郎党をひきいて朝廷を通してやってきたにちがいない。
「天智紀」の四(六六五)年の項に、
「百済ノ百姓男女四百余人ヲ以テ、近江国の神前(かむさき)(崎)郡(こほり)ニ居ク」
 とある。もっともこれは鬼室集斯が直接ひきいてきたグル―プではない。この翌年、右のグループとはべつに、百済人二千人が東国に土地をもらって入植している。鬼室集斯については、
「天智紀」の八年の項に、
「男女七百余人ヲ以テ、近江国ノ蒲生郡に遷シ居ク」
 と出ているのである。さきに、百済男女四百余人が入植した神崎郡と、このとし、七百余人が入植した蒲生郡とは隣接地で、いわば一つ地帯の山野である。
「蒲生」
 という近江の地名は、はるかに降って戦国期に蒲生氏郷(うじさと)を代表的な存在とする蒲生氏の根拠地であったことで知られているが、古代ではこの近江国蒲生郡・神埼郡のあたりは「蒲生野」といわれる原野であった。
 蒲生の地名は近江だけでなく、鳥取県、大分県など各地にある。鹿児島の蒲生は、カモと発音する。
全国に無数にあるカモ(鴨・加茂)とおなじ意味をあらわす異字で、要するに蒲生とは古代出雲系の民族だったと思われる鴨族の居住地のことだったにちがいない。 


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P262













P264
 要するに鬼室集斯ら百済の亡命者がこの蒲生郡一帯に住んだときにはすでにこのあたりには出雲系の鴨族がいて古神道を奉じ、弥生式農業を営んでいたにちがいないが、「日本書紀」の記述のにおいから察しても広漠たる原野というに幾(ちか)く、人煙もまれであったようにおもわれる。


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