新約聖書は哲学というより文学 [宗教]
キリスト教に限らず、宗教と呼ばれるほどのものはほとんど例外なく、世のはじまりについての神話をもっているが、そのはじまりに創造の主体として明確に神が登場し、創造ののちも、その神の世界支配がくりかえし強調されるという点で、旧約キリスト教はとびぬけて体系的といえる宗教思想だった。
世界の中心にゆるぎなく位置を占め、世界の隅々にまでにらみをきかせる神ヤハウェの存在が、体系的思考をささえる核となっていた。
くらべていえば、「新約聖書」のイエス・キリストは体系的思考の核にはなりにくい。イエスを神の子と考えようと、人の子と考えようと、そこから世界のすべてが流れてくるその中心としてイエスをイメージするのはむずかしい。この世に人間として生まれ、一人の人間として多くの人びとと交わり、随所で人の心を打つ愛と人格性と思想性を発揮しつつ、受難のうちに短い一生をおえた人物というイメージが強すぎるのだ。~中略~
パスカルの「パンセ」のように、ありのままのイエス・キリストに近づこうとした思想の書もないではないが、その真情あふれるキリスト論は、やはり、哲学的というより、文学的というにふさわしい文章だと言わねばならないように思う。
だから、イエスを哲学的に扱おうとする人びとは、「父なる神―子なる神―聖霊」の三位一体論へと傾いていく。
新しいヘーゲル
長谷川 宏(著)
講談社 (1997/5/20)
P73
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