炭焼小五郎 [雑学]
炭焼長者の話は、すでに新聞にも出したのだから、できるだけ簡単に、その諸国に共通の点のみを列挙すると、第一には極めて貧賤なる若者が、山中で一人炭を焼いていたことである。
豊後においては男の名を小五郎と言い、安芸の加茂郡の盆踊りにおいても、その通りに歌っている。すなわち、
筑紫豊後は臼杵の城下
藁で髪ゆた炭焼き小ごろ
なる者である。
第二には都からの貴族の娘が、かねて信仰する観世音のお告げによって、はるばると押しかけ嫁にやってくる。姫の名がもし伝わっていれば、玉世か玉屋か必ず玉の字がついている。容貌醜くして良縁がなかったからと言い、あるいは痣(あざ)があったのが結婚をしてからなくなったなどと言うのは、いずれも後の説明かと思われる。
第三には炭焼きは花嫁から、小判または砂金を貰って、市へ買い物に行く道すがら、水鳥を見つけてそれに黄金を投げつける。それがこの物語の一つの山である。
おしは舞い立つ小判は沈む
とあって、鳥は鴛鴦(おしどり)でありあるいは鴨であり鷺鶴であることもあって一定せぬが、とにかく必ず水鳥で、その場所の池または淵が、故跡となってしばしば長く遺っている。
第四の点はすなわち愉快なる発見である。なにゆえに大切な黄金を投げ棄てたかと戒められると、あれがそのような宝であるのか、
あんな小石が宝になれば
わしが炭焼く谷々に
およそ小笊で山ほど御座る
と言って、それを拾ってきてすぐにするすると長者になってしまう。
右の4つの要点のうち、少なくとも三つまでを具備した話が、北は津軽の岩木山の麓から、南は大隅半島の、佐多からさして遠くない鹿屋の大窪村にわたって、自分の知る限りでもすでに十幾つかの例を数え、さらに南に進んでは沖縄の諸島、ことには宮古島の一隅にまで、若干の変化をもって、疑いもなき類話を留めているのである。
海南小記
柳田 国男 (著)
角川学芸出版; 新版 (2013/6/21)
P167
P178
炭焼きはなるほど今日の眼から、卑賤な職業とみえるかも知らぬが、昔はその目的が全然別であった。石よりも硬い金属を制御して、自在にその形状を指定する力は、普通の百姓の企ておよばぬところであって、第一にはタタラを踏む者、第二には樹を焚いて炭を留むるの術を知った者だけが、その技芸には与っていたので、これを神技と称しかつその開祖を神とする者が、かつてあったとしても少しも不思議はない。
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