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河合継之助 [雑学]


 あとがき
   ―「峠」を終えて―
 ひとの死もさまざまあるが、河合継之助というひとは、その死にあたって自分の下僕に棺をつくらせ、庭に火を焚かせ、病床から顔をよじって終夜それを見つめつづけていたという。
自分というものの生と死をこれほど客体として処理し得た人物も稀であろう。身についたよほどの哲学がなければこうはできない。
 日本では戦国期のひとには、この種の人物はいない。戦国には日本人はまだ形而上的なものに精神を託するということがなかった。人間がなまで、人間を興奮させ、それを目標へ駆りたてるエネルギーは形而下的なものであり、たとえば物欲、名誉欲であった。
 江戸時代も降るにしたがって日本人はすこしずつ変わってゆく。武士階級は読書階級になり、形而上的思考法が発達し、ついに幕末になると、形而上的昂奮をともなわなければ動かなくなる。
言葉をかえていえば、江戸三百年という教養時代が、幕末にいたってそれなりに完成し、そのなかから出てくる人物たちは、それぞれ形はかわっても、いずれも形而上的思考法が肉体化しているという点では共通している。
~中略~
 人はどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが、江戸の武士道倫理であろう。人はどう思考し行動すれば公益のためになるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが、幕末人をつくりだしている。
 幕末期の完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。
~中略~
 かれは行動的儒教というべき陽明学の徒であった。陽明学というのは、その行者たる者は自分の生命を一個の道具としてあつかわなければならない。いかに世を済(すく)うかということだけが、この学徒の唯一の人生の目標である。
このために、世を済う道をさがさねばならない。学問の目的はすべてそこへ集中される。
~中略~
 継之助が藩政を担当したときには、皮肉にも京都で将軍慶喜が政権を返上してしまったあとであり、このためあわただしく藩政改革をしたあと、かれの能力はかれ自身が年少のころ思ってもいなかったであろう戦争の指導に集中せざるをえなかった。
 ここで官軍に降伏する手もあるであろう。降伏すれば藩が保たれ、それによってかれの政治的理想を遂げることができたかもしれない。
 が、継之助はそれを選ばなかった。ためらいもなく正義を選んだ。
つまり「いかに藩をよくするか」という、そのことの理想と方法の追求についやしたかれの江戸期儒教徒としての半生の道はここで一挙に揚棄され「いかに美しく生きるか」という武士道倫理的なものに転換し、それによって死んだ。挫折ではなく、彼にあっても江戸期のサムライにあっても、これは疑うべからず完成である。継之助は、つねに完全なものをのぞむ性格であったらしい。

峠 (下巻)
司馬 遼太郎
(著)
新潮社; 改版 (2003/10)
P432



DSC_2507 (Small).JPG出雲大社

P440
「河合継之助という人は、たいへんな開明論者で、士農工商はやがて崩壊するということを、かなり明確に見通していた。封建制度の将来をあれほど見通していた男は、おそらく薩長側にもいなかっただろうと思うんですが、その男が幕府側に立ち、官軍と戦って、自藩まで滅ぼしてしまう。それはどういうことなんだろうか、というわけです」
 この疑問、この矛盾に対して、司馬氏が見出した解答は河合の武士道倫理であった。
同じ文章で氏はこういっている。
「自由人である河合継之助はいろいろなことを思えても、長岡藩士としての彼は、藩士として振舞わなければならない、そういう立場絶対論といったふうの自己規律、または制約が、河合の場合には非常に強烈だったろうと思うんです。・・・・結局、かれは飛躍せざるをえない。思想を思想としてつらぬかずに、美意識に転化してしまうわけです。武士道に生きたわけです」

P443
「峠」の雛型ともいうべき司馬遼太郎の作品に、昭和三十八年十二月に発表された「英雄児」と題する短編がある。地方の小藩では容(い)れきれない河合継之助の器量を語ったものだが、同時に、作者は主人公が自分の育てた藩の武力を信じすぎて、頭脳ではよくわきまえていた時勢の動きにそむく行動に出たことをなげいている。「何の得るところもない戦さに、彼は長岡藩士のすべてを投入」したのだ。
そのため長岡藩は荒廃に帰し、民衆は死後の河合まで怨嗟(えんさ)した。その結果「墓碑が出来たとき、墓石に鞭を加えにくる者が絶えなかった」、「墓碑はその後、何者かの手で打ちくだかれた」と作者は語っている。そしてこの作品は、「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい」という言葉で結ばれている。
 ~中略~
史書によると、長岡藩の農民は、官軍でなく藩に対して一揆反乱を起こしたらしい。そして藩軍は、たとえば今町を奪回したとき、官軍に徴発されていた藩民を殺戮したという。だがこのことは、「峠」ではあまり語られないで終わっている。戦争の描写そのものも、短編の「英雄児」が悲惨さを具体的に描いているのに対し、「峠」のそれは短くて象徴的になっている。そして作者は、河合が死後にまで自藩の者にうらまれた話ははぶいてしまっている。
解説
 亀井俊介





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