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熊野 [雑学]

 熊野には古代の歴史からはみ出てしまうものがいくらでもころがっている。しかも、それならそれで熊野はつねに歴史の外側にあったのかと思えば、それがまったく逆で、もっとも重要な場面になるとたちまち歴史の表面に浮かび上がってくるのである。
 丸山 静は「熊野考」で次のように書いている。「たとえば、「保元(ほうげん)物語という本を読んでみる。すると、すぐに次のような記事が出てきて、それが気になりだす。
久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五年)、熊野に参詣した鳥羽法皇は、「明年の秋のころかならず崩御なるべし。そののち世間手のうらを返すごとくなるべし」という、熊野本宮の託宣をこうむった。果たして翌保元元年の夏、法皇不豫になり、七月二日に逝くなった」。
 熊野本宮の託宣? なぜ、この脈絡で熊野に出番が回ってくるのだろうか。ここで丸山も次のように問うことになる。わが国古代から中世への一大転換、未曽有の内乱の幕が切って落とされる。そんな重要な事件に熊野が「神の託宣」といったひどく神秘的な仕方で介入してくる。そこには何か必然があるのか、と。
 そう、熊野は、特別な権力の集中する場所でもなければ、中央から隔離されたただの辺境の地でもなかった。それが伊勢谷高野山と一線を画すところである。ここは当初、精神史上もっともプリミティブな信仰の地にすぎなかった。だが、それゆえに熊野は、逆説的に、日本の歴史のなかで大きな位置を占めるようになったのかもしれない。
熊野の語源からして、「隠国(こもりく)」「隈(くま)」なども含めて、「籠もり」の地という響きがあるし、熊野とほぼ同意語とされる「牟婁(むろ)」にも「神奈備(かんなび)の御室(みむろ)」などと呼ばれるように、紳霊の籠もる聖なる山や森というニュアンスがこめられている。
E・R・ダッズは、古代ギリシャ文化の古層に「籠もり」(インキュベーション)の習俗をみたのだが、熊野でも同じようなことが行われていたといえないだろうか。
「籠もり」とは、神の加護を求めて寺社などに行き、そこで眠って夢のなかでお告げ(託宣)を得るという行為である。後述するデルフォイとアテネの関係のように、熊野もそれと似たかたちで中央となんらかの強い結びつきをもっていたのではないか。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P36


世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 


DSC_6389 (Small).JPG熊野本宮大社

P57
熊野をかたちづくる、その核心部分とは何か。それは、一般にいわれるような「死者の魂の集まるところ」「死者の国」ではなく、むしろその正反対の、「万物を生み出す力」なのではなかろうか。人は生き、そして、死ぬ。熊野にいるだけで、われわれは、いつまでも巨大な子宮の内部に包まれているような印象を受ける。そう、ここでは石は子宮の比喩であり、万物の始まりを象徴しているのである。
 そして、熊野信仰は、ごとびき岩の下から銅鐸の破片や祭祀の用具がみつかったことでもわかるとおり、その歴史は神武東征以前、およそ三千以前にまで遡る可能性がある。
ここは、まだ日本がはっきりとした国家のかたちをとる前から、多くの人びとが何かを感じて集まり祈りを捧げた特別な場所だったのであろう。その痕跡がいろいろなところに見え隠れしている。「古事記」「日本書紀」どころか、仏教が入るずっと以前から、霊的な地として多くの信仰を集めていたにちがいない。

P136
一応、整理してみると、古くから鎮座していたのは、おそらくただ「神」というくらいの意味しかもちえなかった熊野坐神ではなかったかということである。この熊野坐神は南紀一帯の一地主神にすぎなかったのだが、とんでもない霊力を示したこともあって、そこに他から来た神々が吸収され合祀されるようになったのではないか。それでもその全体像はまだ漠然としている。
 熊野坐神、熊野速玉神、熊野牟須美神が世に知られるようになったのは奈良時代からであるが、速玉と牟須美とは対になる神格で、現在も新宮に残されている一対の彫像によれば、速玉は男性、夫須美(新宮、那智ではこちらを使う)は女性の神格であったと思われる。
「牟須美」はそのまま「結び」であり「産霊」「産土」であった。この世のさまざまな自然や事物を産み出していく力の表象である。つまり、速玉と牟須美で「たまをむすぶ」というひとつながりのイメージを形成していることになる。

P140
 もう一度確認してみよう。熊野では、熊野坐神、牟須美(夫須美)神、速玉神、家津御子神がその代表的神格であるが、それらの神々の意味するところは、それほどかけ離れていないということである。
そうなると、熊野本宮大社の主神は牟須美神であり、さらに、熊野坐神であり、家津御子神でもあるということになる。
熊野速玉大社の主神も速玉神に代表されているが、おそらく速玉神と夫須美神とが合わせて祀られていたことになる。そちらも牟須美(夫須美)とは不可分の関係にあるということである。そして、のちに、牟須美神は記紀の体系に組み込まれて伊弉冉尊(いざなみのみこと)と同体とされ、速玉神は伊弉諾尊(いざなきのみこと)あるいはその唾から生まれた神とされるようになり、そして、家津御子神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同体とされるようになる。さらに、神仏習合によって、家津御子神は阿弥陀如来に、速玉神は薬師如来に、牟須美神は千手観音に擬せられるようになる。
そうやって神々のイメージ群はどんどん肥大していくことになる。それでも、熊野全体の地主神といわれるのは熊野坐神であり、熊野牟須美(夫須美)神なのであって、本宮も新宮も那智もそれらの神格を下敷きにしなければ存在しえなかったということは、深く心にとどめておかなければならないだろう。

P236
 そうしたさまざまな謎から、熊野だけがもっている特殊性とはいったい何かと考えてきたわけだが、その解答はきわめてシンプルなものである。
熊野の神々は、もとからそこに住む地主神、産土神の集合体であり、そこに神道、仏教、修験道などの影響が積み重ねられたものだと考えられる。
人びとが熊野に参拝に訪れた理由も、そこに籠もってさまざまな困難、病気、悩みについての託宣を得ることにあった。。
熊野はかなり特殊な地勢のもとにあり、それゆえに古くから山岳修行者の行場として人々の関心を集めてきたが、彼らが行くところには鉱物資源があり、温泉が湧き、なによりも豊かな自然があった。それを求めて、一遍をはじめとする多くの宗教者がそこを訪れ、さまざまな霊感を得て新しい境地を開いていったのである。そうした力はいまも熊野に息づいている。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書







タグ:植島 啓司
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