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一遍と熊野 [宗教]


南北朝以降、熊野信仰を全国に伝えたのは神道でも修験道でもなく、一遍が始めた時宗という仏教の一派だった。

そこにもミスティシズムがかかわっている。一遍の熊野における覚醒体験というか夢のお告げがなければ、時宗の融通念仏のその後の爆発的な流行も起こらなかったであろう。
~中略~
そもそも浄土真宗の蓮如は五人の妻をもち、二十七人の子をもうけたことが知られているいるが、高僧と呼ばれる人ほど異常な精力をもて余したことはご存知のとおりである。
一遍の場合も例外でなかったのであろう。ただし、一遍が二人の妻をもったこと自体は、当時それほど道を外れた行いでもなかったかもしれないが、五来重(ごらいしげる)は「そのためにヒトの遺恨を買う所行があっただろう」と推測している。(五来重「熊野詣」講談社、二〇〇四年、九二頁。)
おそらく痴情怨恨の類(たぐい)でちょっとした騒動にまで発展したのかもしれない。
 一遍上人ら一行は、それをきっかけにして、融通念仏の聖として「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人びとに念仏を勧める旅を始めたのだった。
 彼らは高野山を経て熊野本宮に向かおうとするのだが、その途中で出会った僧に念仏札を渡そうとして、断られる。
一遍らにとってそんなことは初めての経験だったので、「信心が起こらなくてもけっこうだからお札を受けとってくれ」と強引に手渡してしまう。
しかし、果たしてそれでよかったのかどうか迷いつつ熊野本宮にたどり着くと、証誠殿(しょうじょうでん)で次のような託宣を得る。「融通念仏を勧める聖よ、なぜそんなやり方をするのか。衆生はあなたの手によって往生するすのではなく、すでに阿弥陀仏によってそうなる定めになっている。信不信をえらばず、浄不浄をきらわず、その札を配るべし」と。
 このことは日本の浄土信仰に大きな転換をもたらした事件であった。
「衆生はすでに阿弥陀仏によって往生することが決まっている」という教えは、もともと天台の本覚思想に基づいた考え方であったが、改めて「お前が念仏を唱えさせたからその人間が往生するわけではない」と諭されて、一遍は自分の誤りに気づいたのだった。
それ以来、「信不信をえらばず、浄不浄をきらわず」は時宗の合言葉ともなったのである。こうして、時宗はその教えの素直さと「踊り念仏」という人と神仏との間の境を乗り越えようとする姿勢とによって、ついには一世を風靡することになったのだった。
~中略~
時宗では、一遍が熊野本宮で託宣を得た年を特別に一遍成道の年として祝っているし、大斎原(おおゆのはら)には一遍を記念する「南無阿弥陀仏」と彫られた石碑が残されている。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P87












DSC_6383 (Small).JPG熊野本宮大社


 まことに聖という存在は、中国の過去にも、朝鮮やヴェトナムの歴史にも存在しない。~中略~ ともかくも日本の中世の聖たちは、こんにちの日本の大衆社会の諸機能をすでに備えていた。ときに小説家のようであり、ときに新聞、テレビ、ラジオの機能をもち、ときに広地域の商品販売者であり、ときに思想の宣布者であり、ときに社会運動家のようでもあった。

 高野念仏、熊野念仏、善光寺念仏のように相互に排除しあう体質がなく、他からすぐれた聖がやってくれば、歓喜してそれにしたがったようにおもわれる。たとえば一遍がやってきて、

「佐久平で、別時念仏をしたい」

ということになれば、かれらは、行装(ぎょうそう)が乞食のようにきたないことで有名な一遍をかこみ、それを擁するようにして千曲川を南へさかのぼって佐久にむかったにちがいない。

ついでながら別時念仏というのは、念仏は本来日常に唱えるものだが、修行のためにとくに期間を設け(期間は一定しない。一日だけの場合もあれば、例外的ながら九十日という長期間を設定する場合もある)ひたすらに念仏を勤修(ごんしゅう)する行事であった。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)

P268




タグ:植島 啓司
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