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ほどけていく「私」 [哲学]

 終末期の痴呆老人をケアしていると、しばしば看取られている人が「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」世界にいる、という印象を受けます。終末への道行きを歩む人の「私」は、現実世界に住む人たちとは確かに違っています。
 わたしたちが理解する「私」とは、名前、年齢、家族、職業などいわば属性や社会的関係、さらに自分の交友や過去の歴史がつながった「結節点」です。それらをつなげているのは、いうまでもなく記憶です。
しかし、それらのつながりによって結ばれた「私」は、この世とあの世が入りまじった幽明界では、解けほどけていくような印象を与えます。
 京大大学院で臨床心理学を専攻していた久保田美法氏は、老人病棟や老人ホームでの観察から次のように述べています(註⑧)。

   自分が生きてきた歴史やなじみ深い人びと、ときにはご自分の名前さえ忘れていかれる痴呆では、その言葉も、物語のような筋は失われ、断片となっていく。
   それはちょうど、人が生を受け、名前を与えられ、言葉を覚え、「他ならぬ私」の人生をつくっていくのとは反対の方向にあると言えるだろう。ひとつのまとまりのあった形が解体され散らばっていく方向に、痴呆の方の言葉はある。
   それは文字通り、ゆっくりと「土に還っていく」自然な過程の一つとも言えるのではないだろうか。

 以上の過程において、「私」は、しばしばこの世の人とあの世の人との間を行ったり来たりして、双方につながりを持っているように見えます。
 初めてそのような現象を観察したとき、わたしは、ちょっとショックを受けました。
八十代のその女性は、往診のわたしをいつも笑顔で迎えてくれました。娘さんが「この頃、母は祖母やもう亡くなった人たちと話しているんです」と言うので、「ご両親と会われるそうですね」とたずねました。すると彼女はわたしの左肩の後ろを指差し、「ええ、そこに来ています」とにっこりしました。
現時点で現世の筆者と会話する彼女の心的状態を正常と規定するならば、あの世の人と話す彼女は幻覚、幻視の状態であるということになります。しかし、その時の彼女は幽明の境がなくなったように、自在にこの世の人とあの世の人との間を往来する様子が印象的でした。  

「痴呆老人」は何を見ているか
大井 玄 (著)
新潮社 (2008/01)
P128

DSC_2819 (Small).JPG立久恵峡温泉


タグ:大井 玄
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