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淡路 [雑学]

 淡路というのはむろん、日本の他の地域と同様、弥生式農耕が入って、銅鐸などもかなり出ている。その後古墳時代に入ってからは、漁民こそこの国の代表のように「日本書紀」などに登場する。しかし、広大な耕地をもつ古代土豪がいたのかどうか、この島における前記古墳や中期古墳の存在がまだあきあらかでないため、よくわからない。
 そのくせ、この島は伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)神話で知られるように、古代国家の誕生神話のなかでも主流をなす伝承をもっている。この男女紳はまずははじめにおのころ島を生んだ。
おのころ島は、神話だからそれがどこということもないが、淡路島の属島である沼(ぬ)島であるといわれたり、淡路島そのものだともいわれたりする。
この神話は元来、ふるくから淡路島にあったものを畿内政権がとり入れたものかとも思える。
そのことはどうでもいいが、この両神の国生み神話が天皇家の神話の最も重要な話の筋に組み入れられているということは、淡路には大阪湾沿岸の権力(大和をふくめて)が古くから及んでいて、古墳時代がはじまっても、この島に大土豪を成立させなかったのかもしれない。古代天皇家そのものが、淡路を直轄領とする大豪族だったのである。
 また淡路島は、さきの「日本書紀」の「応神紀」にもあるように、「海人部(あまべ)」とともに「山守部(やまもりべ)」も置かれた。山守部は山林に入ってしごとをする人である。猟もする。これも王朝直属の民である。山守部には木材だけでなくシカやイノシシも獲って送り出す義務があったのであろう。淡路島の古代は、海彦も山彦も、そして農耕者も、古代王朝を食べさせてやってきたことになる。
この島が、神話で優遇されたり、また島ひとつで一国という礼遇をうけたことも、多少はこういう有難味から出たものではなかったか。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P125

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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DSC_3028 (Small).JPG宗像 大島

P186
 われわれはその(住人注:淡路の上代以来の)古道をたどった。 その途中に、伊弉諾(いざなぎ)神宮がある。
「記紀」の神話に出てくるイザナギ・イザナミの夫婦神は、天界からアマノヌボコという鉾(ほこ)をさしおろして海中をさぐるうちにオノコロ島を生み、やがて大八洲国と万物を生んだというが、おそらく淡路島の先住民の説話が「古事記」「日本書紀」の編纂のときにとり入れられたのであろう。
~中略~
 ともかくもこの神社は古来、広大な境内をもち、ほとんどが森林であった。森林に神が天降りするという古代信仰からいえば、たしかに神聖林であったであろう。


街道をゆく〈7〉大和・壷坂みちほか (1979年)

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