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国分寺 [雑学]

 私は関心のある土地へゆくと、かならず国府の跡か国分寺のあとへ行くことが癖になっている。
奈良朝のころに国分寺がたてられたとき、ふつう国府を離れること十五、六町ということになっていた。
相連関(あいれんかん)してその国の中心をなしており、奈良朝に相せられたその国の中心の場所というのはどういう地勢だったかということに興味がある。
 現在の中心の感覚とは、ひどくちがっているのである。現在の中心感覚は、豊臣秀吉の感覚を祖としている。秀吉は行政の府を、ちょうど大坂がそうであったように、内陸部から湾入した海浜に持ってきた。
 この感覚を諸勢力が見ならった。たとえば武蔵国の国府は北多摩郡の府中であったが、家康は江戸に首都を置いた。
毛利氏もなが年の根拠地であった安芸の内陸部の吉田の地をすてていまの広島市に進出し、黒田氏もいまの福岡市に城下町をつくり、土佐山内氏も浦戸湾に面したいまの高知市という低湿地をわざわざ埋めたててここに城下町をつくっている。
 それ以前、中世の武家の本拠地は内陸の要害地が多かった。さらにそれ以前の奈良朝の国府の場合は、要害性はあまり計算に入れられていない。内陸の穀倉地帯の中心に国府が置かれた例が多いのは、租税としてとりあげる農作物をあつめるのにもっとも便利な所というのが、選定の基準だったからであろう。
国府のそばを当然ながら奈良時代の主要な街道が通っている。

街道をゆく (7)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1979/01)
P165

DSC_9648 (Small).JPG若狭国分寺

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