なぜ勉強しなければいけないの? [教育]
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六歳の子どもが手を挙げて「先生、それを学ぶと何の役にたつんですか?」と言うとき、子どもは子どもなりに「有用性のモノサシ」を持っているわけです。でも、問題なのは、その六歳児のモノサシで世界中の価値がすべて計れると思っていることです。
だから、そういうときは、「バカモン、子どもは黙って勉強しろ!」と言うのでいいんです。~中略~
「いいから黙って」という言葉が物質的な迫力を持つためには、「君には君がなぜ勉強しなければいけないのか、その理由がわからないだろうが、私にはわかっている」という圧倒的な知の非対称性が必要なんです。子どもが、「あ、この先生は私が「私についてしらないこと」を知っている」と実感しないと、「いいから黙って」は奏功しない。
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子どもに四書五経の素読なんかさせたって、学問的有用性はまったくないんです。
ではいったい何を教えているのかというと、「子どもには理解できないような価値が世界には存在する」ということそれ自体を教えているわけです。「お前が漢籍を学ばなければならない理由を私は知っているが、お前は知らない。」という師弟の知の非対称性そのものを叩き込んでいるわけです。極端な話、漢籍の内容なんかどうだっていいんです。子どもに「手もちの小さな知的枠組みに収まるな」ということを殴りつけて教え込んでいる。
子どもに「オープンエンド」ということを教え込んでいる。それさえわかれば、あとは子ども自身が自学自習するから。
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特に授業に対して不熱心な子どもたちに共通して感じるのは、単なる怠慢や不注意ではないんです。彼らはだいたい「わかったような顔」をしているんですよ。
「すべて、わかっているんだよ」と。「おまえがやろうとしているようなことは全部お見通しなんだよ」という顔をする。これは先ほど言ったとおり、消費者マインドを刷り込まれた子どもの共通性格なんです。
自分の前に登場してきた未知のものに対して、一覧性を要求する。彼らはこれを正当な要求と思っていて、親も教師もそれに同意している。これが一番いけないと思います。
こどもたちにはこれから学ぶことの価値も意味も実はわかっていないという根源的な事実を教えるのが、教育の存在理由なわけですから、子どもに「みんなわかっているん」という態度を絶対に許してはいけない。でも、現在はまったくその逆になっている。
最終講義 生き延びるための七講
内田 樹 (著)
文藝春秋 (2015/6/10)
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