天道は是か非か [哲学]
世間には、冷酷無情にして聊(いささ)かも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものが、かえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴きおるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契(かな)ったものが、かえって世に疎んぜられ落伍者となる場合がいくらもある。
天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するは、誠に興味ある問題である。
~中略~
志が如何に善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることができぬ訳である。
これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、人は成功する。
行為の本である志が曲がっていても、所作が正しいという理屈は、厳格に言えば有ろう筈はないが、聖人も欺くに道をもってすれば与(くみ)しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。
~中略~
したがって、巧言令色が世に時めき、換言は耳に逆い、ともすれば忠恕のある真面目な人が貶黜(へんちゅつ)せられて天道是か非かの嘆声を洩らすに引きかえ、わるがしこい人前の上手な人が比較的成功し信用さるる場合のある所以である。
「常識と習慣」
渋沢栄一 (著)
論語と算盤
角川学芸出版 (2008/10/25)
P105
福岡市博多区東公園 十日恵比寿神社
道徳的なふるまいをする人が、本当に道徳的であるとは限らない。
~中略~
つまり、道徳的な行為そのものが道徳的だと決めつけることなどできないのだ。
要するに道徳は、その行為だけでは本物かどうかはなかなか判断できない。
「曙光」
超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦 (翻訳)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/1/12)
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はじめまして、憚りながらコメントさせていただきます。
人として、良いとされる考え方を持っている人が、
必ずしも社会の中では必要とされない、というのは悲しいことですね。
必要悪を、ただ「悪」と思う人間より、それを受け入れる、
ある意味で冷たい面を持つ人の方が社会では重用される、
ということ…でしょうか。
若輩者の私には難しく、上手く思ったことが言葉になりませんが、
これは、古くから人の世に根差す問題なのですね。
歴史を振り返りましたら、確かにそのようなことが多く有ったと思われます。
こういった考えは甘いのでしょうが、やはり残念に思われます。
長々と失礼いたしました。
by Aino (2010-10-14 14:11)
コメントありがとうございます。
今後とも宜しくお願いいたします。
馬寄村の住人
by not_so_bad_one (2010-10-14 18:28)