寺らしい寺 [見仏]
わたくしは、前管長朝比奈老師の隠寮が、一撃亭と言はれてゐたように覚えてゐるが、時折、伺った。
老師とはいはゆる世間話をして、一服ご馳走にあづかる。忙しい時間をさいて、訪れる檀家の方に、それぞれの向きに応じた話、相談をするあたたかい談笑を、何度か経験して、寺といふものが、死の時だけ必要なものではなく、平常無事の時に、心許して雑談出来る場であることこそ、本来の姿に思つた。
円覚寺とわたくしー円覚寺
中里 恒子
井上 靖 (編集)
私の古寺巡礼(四)
光文社 (2005/1/6)
P230
長谷寺5 ぼたん
P237
わたくしたちが、安心して歩ける場所、観光寺院も、人人の、なんとなく行きたい見たい場所なのである。日曜祭日などに、ぞろぞろと、円覚寺の山門を出入りする人人を見て、わたくしは、精神的なものに、どんなに人人が餓えてゐるかと思う。
ことさらに、花だ、紅葉だと、観光客が殺到するよりも、ひとしれず、寺詣をする在家の人に、親しみと、安らぎを感じさせる寺であるのが、わたくしは、いちばん純粋な寺らしい気がする。
円覚寺とわたくしー円覚寺
中里 恒子
玄侑 江戸時代までのお寺は、学校であり役場であり、文化センターでありコミュニティの中心だったんですね。
時代を追うにつれてその機能が奪われて、今はお葬式だけが残されるようになってしまいました。
玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P169
私たちが寺を見物して歩くときに、その寺が生活を持っていることをつい忘れがちになる。見物する程の寺は殆ど由緒ある古寺ばかりで、現在では拝観料を取ることで生活を支えているような寺も少なくないが、それでもそこに生活がないわけではなく、況や過去に於ける生活の名残は現に感じられる筈である。
それを見落としては寺を見たということにはならない。大原の寂光院は今は知らないが、私が行った頃は茶室で尼さんが茶を点ててくれた。その一服の茶は建礼門院の生活とどこぞで結びついているいるような気がした。
もっとも京都の寺はこの頃はどこもかしこも拝観料を取って抹茶をふるまうらしく、経営という点では致し方ないものと思うものの、それによって寺それ自体の生活の匂いが希薄になって行くのは寂しい。
寺は僧侶の修行の場であってむやみと俗人の足を踏み入れるべき場所ではなく、それを承知で恐る恐る我々俗人が拝観に及ぶからこそ、古寺のゆかしさも伝わって来ようというものである。
拝観料さえ払えば、見物人はどんな傍若無人の振舞をしてもいい訣合のものではあるまい。
福永武彦
(初出「古寺百景」毎日新聞社 昭和52年11月刊)
「風景の中の寺」より部分抜粋
名文で巡る京都―国宝の寺〈1〉東山
白洲 正子
白洲 正子 (著) 大庭 みな子 (著) 杉本 秀太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
P78
名文で巡る京都―国宝の寺〈1〉東山 (seisouおとなの図書館)
- 出版社/メーカー: 青草書房
- 発売日: 2008/04/01
- メディア: 単行本
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