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死の国 [宗教]

鈴木 そして私の前に光の源である生命に満ち、完全な人格を持つ方が存在していました。
私はその光そのものの方にすべてを理解され、すべてを受け容れられているという不動の確信に満たされてゆきました。
それは愛そのものだ、慈しみそのものだ、この方と自分が人格として相通じているという強い一体感を感じて、愛の極致とはこういうことだという実感がありました。

 そこにいつまでも留まりたいと感じていたのですが、何か下のほうから、「癒してください、癒してください」というたどたどしい日本語が聞こえてきましてね。
生命の光が、あの世に帰りなさいと私に促しているんです。
鈴木秀子

玄侑 宗久 (著)
多生の縁―玄侑宗久対談集
文藝春秋 (2007/1/10)
P63

-7bbdb.jpg龍蔵寺7

玄侑 そこで”あの世”というのは、われわれがいまいる”この世”のことなんですね。

鈴木 そうなんです。そしてあの世で最も大切なことは二つしかない。「知る」ということと、「愛する」ということだ、と言葉ではなく、存在から存在に直接伝わるように以心伝心で伝わってきて、私の中に核になるような力で治まったんです。
その「知ること」、「愛すること」っていうことは、結局「叡智」と「慈しみ、慈悲」だということ。
だから、本当の人間に生きる叡智は、人を知れば知るほどその人を受け容れて、その人のすべてを理解すれば、愛さずにいられなくなる。そういう「叡智」と「慈愛」のようなものだということを体中で感じたんです。

玄侑 いまの”人格としての光”というのは、仏教で言えばまさに阿弥陀如来のことですね。

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 私は死の国を彷徨していた。どういうわけかそこが死の国であることはわかっていた。不思議に恐怖は感じなかった。
ただ恐ろしく静かで、沈黙があたりを支配していた。私は、淋しさに耐え切れぬ思いでいっぱいだった。
 海か湖か知らないが、黒い波が寄せていた。私はその水に浮かんでいたのだ。ところが水のように見えたのは、ねとねとしたタールのようなもので、浮かんでいた私はその生暖かい感触に耐えていた。
 私のそばには一本の白い腕のようなものがあって、それが私にまとわりついて離れなかった。その腕は執拗に私をタールのような水に引きずり込もうとしていた。
どこまでも、どこまでも離れようとしない。私は白い腕から逃れようとあがいていた。
 あれは誰の手、私の手ではあるまい。でも誰の手であろうか。こんな気味の悪い経験をしたことはなかった。
~中略~

 下は見渡す限りのスラムだった。荒れ果てて人が住んでいる形跡はない。それがさっきのタールのような海に続いていた。塔の上には一本の旗が立っていた。それが風に翻っているのが、夜目にもはっきりとわかった。これは死の国に相違ない。

それならば神様がいるかと思って探してみたが、どこにもその形跡はなかった。
 こんなところまできてしまったからには、もう帰るわけにはいくまい。ものすごく寂しかったが、不思議に恐怖感はなかった。でも、あんな孤独感を味わったことはなかった。

 もう諦めていたのに、目を覚ましたのはのは明け方であった。まず目に入ったのは妻の心配そうな顔だった。寝ずに見守っていたので。安堵の気持ちが表情に表れている。

寡黙なる巨人
多田 富雄 (著), 養老 孟司 (著)
集英社 (2010/7/16)
P16

 

一二 季路、鬼神に事(つか)えんことを問う。


子曰わく、未だ人に事うる能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能く鬼に事えん。


曰わく、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。


先進篇


                  論語

           孔子 (著), 貝塚 茂樹

                       中央公論新社 (1973/07)

                       P299


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