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浅井江の生涯 [雑学]

 江の晩年の生活は、江戸城大奥で将軍家御台所として諸大名との交流を円滑に維持することにあった。
~中略~
大名・公家・寺社との贈答関係も、欠かすことはなかった。

福田 千鶴 (著)
江の生涯―徳川将軍家御台所の役割
中央公論新社 (2010/11)
P216

-1a3a9.jpg山口市 清水寺6

P247
 江は上方女のプライドを心の奥に秘め、「ふくさ」に生きる道を選んだのである。
刀を帯し、いつ武力を行使するかわからない男たちの前で、当時の女たちが生きるためにとった止むを得ない選択であり、それが賢く生き延びるための最善の策であったろう。

 その結果、江の生涯は、家光を疎んじ、忠長を鍾愛したと伝聞される以外は、目立つことなく地味に過ぎていったが、徳川将軍家御台所のなかで唯一人、将軍の生母として崇敬され、死後においても歴代将軍の正室・側室のなかで、三十三回忌が行なわれたのは江だけであった(山本梨加「幕藩体制下における将軍の御成」)。延宝三年(1675)9月には五十回忌法会も営まれている。
 江は、女性像の大きな転換点において「ふくさ」な女性として生きる道を選ぶことで、将軍家御台所としてのおおきな足跡を残すことができたのである。

P249
 浅井江は、将軍家御台所としての役割をはたし、その生涯を終えた。今後も彼女は、将軍徳川家光や東福門院和子の生母、また明正天皇の祖母として語り続けられるだろう。
そのこと自体は江も望んだことだろうし、「家光は自分が生んだ本当の子ではない」などと真実を語ることで、家光の「生まれながらの将軍」としての立場を貶めることは彼女の本意ではないだろう。
どこにでも表向きの話はあり、それをあえて暴いても仕方がない。知らないことが幸せということもある。
 しかし、彼女が将軍家御台所の役割をまっとうしたことによって、「六歳年上の姉さん女房で、多産のうえ嫉妬心が強く、将軍秀忠は恐妻の江には頭があがらなかった」というような誤った一般認識が生じてしまったのもまた不幸な事実である。こうした虚像からそろそろ彼女をかいほうしてあげてもよいのではないか。

福田 千鶴 1961年(昭和36年)、福岡県に生まれる。九州大学大学院文学研究科博士後期課程中途退学。博士(文学、九州大学)。専攻、日本近世政治史。東京都立大学人文学部助教授などを経て、九州産業大学国際文化学部教授

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