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八百長 [言葉]

 よく知られているように八百長ということばそのものは明治初期にできたという。八百屋の長兵衛さんは出入りしていた相撲部屋の親方と囲碁友だちで、いつも一勝一敗の互角の勝負で終わっていた。しかしあるとき、長兵衛さんはプロの棋士と囲碁を打つことになった。なぜか長兵衛さんはここでも互角の勝負をした。
これが世間の噂になり、親方の耳にも達した。そこで初めて親方は、長兵衛さんが手加減をしていたことを知る。勝負の優劣をつけない、白黒をあいまいにしておく、これが八百長の語源である。いまで言うところの「片八百長」だ。この片八百長という慣習行動は、日本の社会では古くから行われてきた。のみならず、現代社会でもさまざまに姿・形を変えて生きている。一種の社会の潤滑油として機能を果たしている。だから、廃れることがない。
~中略~

 元力士の舞の海はつぎのように明言している。
仕切りなおしをしているうちに「情」が移ることがある、と。このことばのもつ意味は重い。多くの人たちは気づいていないようだが、力士はお互いにとても仲良しなのだ。年に六場所。番付の上下八枚以内の力士同士は、毎場所本割で顔を合わせ、全力でぶつかり合う。
その他にも「出稽古」に行ったり、巡業でも一緒に稽古を重ねる。文字通り裸と裸の付き合いだ。その間に、深い友情が生まれるのはごく自然のなりゆきである。
~中略~

仕切り直しをしているうちに「情」が移る。これもまた自然のなりゆきではないか。金銭の授受をともなわない、「情」が移ってしまう片八百長は、血の通った人間であるかぎり止めようがないのだ。
 しかも、ここに、大相撲という世界の不透明さが含みを持つ「美学」「美意識」の一つの発露がある。しかし、近代の科学的合理主義の考え方に支配されてしまった、今日のわたしたちの多くは大相撲にもひたすら透明性を求め、「情」を否定して「がちんこ勝負」を要求する。
四年に一度のオリンピック選手と同じように。となると、力士たちは、年に九〇日間も、つまり四日に一回の割合で「がちんこ勝負」をしなければならないことになる。
それはあまりにも酷というものである。と同時に大相撲のもつ「美」が破壊されてしまう。
~中略~

 八百長問題に端を発する大相撲改革は、言ってみれば二一世紀を生きる新たな世界観を構築していく営みの一環でもある。金銭の授受をともなう八百長相撲を徹底的に排除していくと同時に、大相撲ファンを満足させるに足る人情相撲を許容する、そういう新たな伝統文化としての大相撲の創生に向けて、努力を傾けるべきであろう。すなわち、近代の科学的合理主義の考え方にもとづく透明性と、人間の情の世界(情緒的寛容の世界)を温存する不透明性とを併せ持つ、二一世紀的文化としての大相撲をめざす、ということだ。

大相撲 真の再生への提言──21世紀的世界観に立った改革を
  稲垣正浩 (日本体育大学名誉教授)

世界 2011年 06月号

岩波書店; 月刊版 (2011/5/7)
P175

世界 2011年 06月号 [雑誌]

世界 2011年 06月号 [雑誌]

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2011/05/07
  • メディア: 雑誌

 

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