サイカ党 [雑学]
戦国時代に、サイカ党という奇妙な武士集団があった。
紀州雑賀(さいか)という。いまの和歌山市の南につながって、山地がいきなり海に没するミサキのあたりにむらがって住み、全員鉄砲に習熟していた。
~中略~
日本の鉄砲の歴史は、たれでも知っているとおり、天文十二年(一五四三年)種子島に漂着したポルトガル船の船長が島の王様種子島時堯に一梃千両で二梃売りつけたところところからはじまる。
それからわずか十二年後の天文二十四年の厳島合戦に、はやくもこの新兵器が戦場にあらわれ、六、七梃で敵をなやましたとある。
~中略~
さて、話はもどって、サイカ党のことである。
かれらは、もともと郷士団で、田畑のすくない土地だから、浦へ出て魚をとったり、山でイノシシを追ったりして、妻子をたべさせていた連中だった。
この大田舎に早く鉄砲が伝わったのには、わけがある。種子島時堯の館でごろごろしていた旅の僧があり、鉄砲をみて、
「手前に一挺くだされませぬか」
時堯はなにげなくあたえた。むしろ日本史を動かしたのは、長篠ノ戦いよりも、この瞬間だったかもしれない。
僧は、紀州根来寺の男だった。根来の僧兵はこのために早くから火力装備をもったが、紀州雑賀は根来に近い。地理的に近いところから、雑賀衆が鉄砲に習熟することで、天下にさきがけた。土地では食えないのだ。
自然、かれらは、技術傭兵になった。諸国に合戦があると、かれらは集団的に傭(やと)われて、大いに戦場で活躍した。きのうはA国にやとわれ、きょうはB国にやとわれるということもあったはずだ。
いっさい仕官はせず、技術を売ってのみ生活していたという武士集団は、戦国社会では、鉄砲のサイカ党と忍術の伊賀者のほかにない。専属でなくフリーの戦闘タレントだったというわけである。
戦国期を通じて、かれらはあくまでもフリーの職業精神に徹してきたのだが、最後になってそれが崩れた。ゼニカネでくずれたのではない。
信仰でくずれたのだ。
当時の新興宗教一向宗(真宗、いまの本願寺の宗旨)に集団入信してしまったのである。
信長が摂津の石山本願寺を攻めたとき難攻不落だったのは、よくいわれるように城兵の信仰の固さだけではない。
当時、最新鋭の火力装備をもつ織田軍でさえ、石山本願寺にこもるサイカ党の火力のまえには、手も足も出なかったのである。
(昭和36年11月)
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P69
司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)
- 作者: 遼太郎, 司馬
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/12/22
- メディア: 文庫
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