思想と政治 [雑学]
この戦い(住人注;蛤御門の戦い)のあと、長州びいきの土佐の中岡慎太郎が薩摩の西郷のもとへゆき、
「思想(すじ)のとおらぬことをなさる。あなたもまた尊皇攘夷であるのに、なぜ兵をもって長州を撃ちなされたか」
と、詰問したが、西郷の唇はしばらく沈黙したままであった。なぜなら薩摩のほうが、思想をとびこえてきわめてきわめて政治的であったからであり、政治的である以上「そのほうがわが藩の政略上都合がよかったから」とは言いづらい。
長州人は形而上的な思考に昂奮し(松陰がそうであったように)薩摩人が現実から決して宙に浮かず、その点ではおとなであった。
世に棲む日日〈3〉
司馬 遼太郎 (著)
文藝春秋; 新装版 (2003/04)
P149
~中略~
この元治元年七月の時期では、薩摩は幕府と手をにぎって長州に対抗した。が、やがて後年、長州と手をにぎって討幕主力に変化するのである。薩摩によって背負投げをくらわされたのは長州だけでなく、のちの慶喜も同様であった。
慶喜はその晩年、明治になってからも、
「長州は幕府を敵とし、憎悪し、武力と権謀をつくして挑んできたが、しかしあれはあれでそれなりの筋がとおっていた。
だから、自分はなんのうらみもかつての敵であった長州にはもっていない。しかし、薩摩はべつである。これを思うとこんにちですらなんとも言えぬおもいがする」
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