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大村益次郎 [雑学]

この時代の要請に応えて、維新史の決定的瞬間に彗星のように現れたのが、近代兵制の創始者といわれる村田蔵六こと大村益次郎である。 彼が果たした役割について、木戸孝允は晩年つぎのように語っている。 「維新は癸丑(きちゅう;ペリーが来航の嘉永六年)いらい、無数の有志の屍のうえに出できたった。  しかしながら最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就はむずかしかったにちがいない」 

花神 (下巻)
司馬 遼太郎 (著)
新潮社; 改版 (1976/08)
P546  

DSC_9746 (Small).JPG平山温泉

P549
 大村は文政七年(一八二四)、山口県の三田尻に近い鋳銭寺村の医者の子として生まれ、明治二年(一八六九)、守旧派の刺客に襲われた怪我がもとで四十五歳で没した。
彼が維新史の表舞台に初めて姿を見せるのは、慶応二年、幕府の第二次長州征伐を迎え討つ長州側の指揮官としてである。時に年四十二。没年まで三年を余すにすぎなかった。しかし、彼はこの三年余に驚異的な仕事を着々と成し遂げている。

P550
 晩年の数年間に開花した彼の才能は、それ以前の時期、つまり村田蔵六として書物に埋もれていた雌伏時代に徐々に貯えられていったのである。
解説 赤松大麓

P496
 かれは軍事上の重要施設を東京に置かず、大阪に置いた。大阪は大阪湾にのぞむ町で、兵器や物資を瀬戸内海経由で九州へ直送することができる。
~中略~
 さらに彼の周到さは、日本第一等の西郷が反乱をおこした場合、西郷に匹敵する頭目が新政府にいないことを憂え、それにかわるべき権威として公家をかつごうとしたことであった。その人選もひそかにやった。 その人選もひそかにやった。まだ年若い男ながら西園寺公望をひそかにかつぐつもりで、西園寺が江戸にくるのを待ちうけ、まるで息子がにわかに出現したほどに蔵六はこれを可愛がった。
 西園寺公望はその後、壮年になってから蔵六のこの意図にふと気づき、愕然としたらしい。そのころには蔵六も西郷も死んで、この世にいない。

P543
 要するに蔵六は、どこにもころがっている平凡な人物であった。
 ただほんのわずか普通人、とくに他の日本人とちがっているところは、合理主義の信徒だったということである。 このちがいは一見ほんのわずかに見えるが、考えようによっては、日本的風土のなかでは存在しがたいほどに強烈なもので、その強烈さのために蔵六はその風土を代表する政治的狂人のために殺された。
 若いころ、田舎医としての蔵六は、はやらない医者であった。すでにこの作品の中でふれたように、患者が「お暑うございます」とあいさつすると、「夏は暑いのがあたりまえです」と人の顔を逆撫でするようなことをいった。患者たちは腹をたてて近寄らなくなった。
この調子を後年、蔵六はぬけぬけと日本的規模のなかでやってのけて、腹をたてた「患者」どもから国賊として殺されてしまったのである。
あとがき


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