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東北―つくられたイメージ [日本(人)]

東北に対する「未開」イメージや「野蛮」視は明治前期から見られたものの、同時にフロンティアや豊かな土地という姿も投影されていました。
東北=後進地という認識が社会的に定着するのは明治も末期になってから、二〇世紀に入ってからだといってよいでしょう。

東北―つくられた異境
河西 英通 (著)
中央公論新社 (2001/04)
P184

DSC_9756 (Small).JPG平山温泉

P143
日清戦争直後に三陸を襲った大津波は東北の悲劇性を全国にひろめましたが、さらに決定的な劣悪なイメージを植え付けたのは連続した凶作です。
~中略~
「風俗画報」は以前より東北の民族的世界を描いていましたが、凶作の悲惨さが報じられることで、魅力ある風俗を有する地域のイメージは消え去り、貧しく遅れた<東北>という像がしだいに植え付けられていったのです(表6)。
 大凶作は宮城・福島・岩手の三県に大きな被害を与えましたが、東北イメージの急速な瓦解は他の県でも見られました。まずは言語問題。

P187
 近代の民衆も日本の国家空間・国土領域を正確には認識していませんでした。日本が均質で一体的な空間だったならば、そもそもこうした疑問(住人注;「風琴と魚の町」林芙美子 尾道の子供の「東京から先はどうなっているか」という疑問)も生じなかったでしょう。
反対に、日本が独自な文化と異質な歴史をもつ諸地域から構成されているからこそ、民衆の国土空間認識はあいまいであり、他者認識は不明確なものでしかなかったのです。
~中略~
東北とは(少なくとも主観的には)無関係に成立している生活世界を背景にした、きわめて無責任な東北理解(というより無理解)でした。あえていうならば、具体的な体験から派生する差別や排除の眼差しというよりも、それ以前の無知と憶測、偏見と遠ざけの眼差しです。

P195
 柳田國男が一九二六(大正一五)年九月から一〇月にかけて「岩手日報」に掲載した「郷土叢書の話」のなかで、「世間ではよく東北六県などというけれども、わたしの見たところでは、これを一括して考え得る東北人は一人もない」とのべている点が印象的です。柳田は世にいう東北の一体性なるものに対して、おおいに疑問を抱きました。
柳田はこの箇所の直前で、東北の「困窮原因」なるものに言及して、こう論じています。
問題は「凶年でもないのに栃の実などを食っている人、少しく作柄が悪いとすぐに栄養不良になる子供、病人でも続くとたちまち竃(かまど)を覆すような百姓が、何ゆえに東北ばかりに多かったかという点」にこそある、それは、「実地の生活を自ら観察し考慮する者のために、大切な指導者たるべき歴史の科目が空であるゆえに、結局事情の大いに違った中央部日本の尻ばかり追っていた」結果なのだ、と。

種市(住人注;岩手県九戸郡洋野町か?)に入ると、ここは町制が布かれているだけに、沿道に人家がばらついている。 どの農家も外観に不抜の性根のようなものが感じられて、いかにも自給自足能力からきた自信といった感じがあった。
南部の農家は決して貧しくはなく、南部農民が貧しいといわれているのは、マスコミが頑固にもちつづけている感傷的偏見である。
どの農家も水田を開いて二世紀以上の経歴をもち、すでに世界や国家がどう変化しようが食うにはこまらないほどのしぶとい自給能力を身につけていて、一戸一戸ながめてると、その生活基盤の堅牢さは憎々しいほどである。
かれらはなるほど農閑期になると季節労働者として東京へ出かせぎにゆく。だから貧しいのだろうと見るのは都市のルンペン市民のいわれなき傲(おご)りであって、じつはかれらは東京という現金(キャッシュ)の街へキャッシュを獲りにゆくだけのことである。

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P82


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