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長州藩 [雑学]

明治維新の規定がどうであれ、幕末の長州人集団というのが、日本史ではめずらしいほどに革命意識と革命の行動性をもっていたということを、こまかくみればみるほど、そう思わざるをえない。
その後の日本史に、この時期の長州人たちほど革命団体というにあたいするものがあったかということにあると、フランス革命以後のフランスと同様、たいしたことはなさそうである。

街道をゆく (4)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P43

DSC_3913 (Small).JPGみもすそ川公園

P44
 この(住人注;「蛤御門の変」という名称で知られる元治元年ノ変)長州藩の京都討ち入りというのは、どの国の革命にもある段階発生し、存在する革命観念の暴発で、現実的な政略計算など一切見られない。
そういう計算は、むしろ敵であった。高杉晋作や桂小五郎といった革命の玄人暴発に反対したが、しかし押し流された。
この時期、長州藩の反幕運動は厚い壁にとりかこまれて、絶体絶命の窮地にあった。そのくせ集団の意識だけは極度に昂揚し、はけ口を求めねば内部の統制がとれなくなるところまできていた。
ついに船団を組んで三田尻港を出発し、大阪湾に入り、京都を包囲し、やがては御所を目標に乱入して激烈な市街戦を演じたすえやぶれた。
どうみても勝ち目のないこの集団行動をなぜやったかということは、そのころの長州藩の追いつめられた事情や空気を見ることなしには理解できない。

P47
 元治元年ノ変のあと、長州藩は反幕体制という国家体制からはじき出された私設藩になってしまった。
幕府がそのようにした。佐幕化した朝廷に要求して、在来勤王好きの長州藩毛利敬親の官位をとりあげ、いわば平民にした。むろん朝敵でもある。
さらに将軍と大名という主従関係も、幕府側から断ち切った。
長州藩は法的には徒党集団にすぎなくなり、政治的には日本における一独立国になった。長州は戦国の毛利氏にもどった。
高杉晋作が好んで使った言葉でいうと防長二州(山口県)に「割拠」せざるをえなくなった。長州人が政略的になるのは、この窮地に追いこまれてからである。


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