由布院 [雑学]
由布院の由布という言葉の意味には諸説あるが、木棉(ゆふ)であると決めこんでも、ほぼ間違いはないように思える。
木棉(ゆふ)は、今でいうもめんのことではない(もめんは、いうまでもなくインドが原産地である。
インドから明朝のころ中国に伝わったことは、はっきりしている。日本には、戦国末期のころに中国から伝わった。
秀吉のころの大名などがもめんを衣装に用いることがあっても、堺で荷揚げされた輸入品で、贅沢な感覚のものだったに相違ない)。
ゆふ(木棉、由布)は上代語で、木の皮から繊維をとりだした布のことをいう。
こうぞなどの木を剥ぎ、その繊維を蒸し、水でさらし、それをこまかく裂いて織った布を、われわれの先祖は着ていた。もっとも「万葉集」一三七八に、「木棉懸けて斎(いつ)くこの神社(もり)越えぬべく」とあることからみると、ユフという白い布は主として神事用いられたようでもある。
上代、普通の人間は麻を着、神にユフを捧げていたとすれば、ユフは麻よりさらに時代の古い繊維だったという想像もなりたつ。~中略~
もっとも、木の皮の繊維などを着ていては、冬などずいぶん寒かったろうと思われる。その保温力を増すために、ススキの穂などをまぜて織ったにちがいなく、そのためにはただのススキよりも、トキワ・ススキのように羽毛に似た穂を織りこむほうが上等だったかもしれない。
ともかくも、牧畜に生活文化を依存する度合が、皆無か、きわめて希薄だったわれわれの古い先祖たちの防寒のための衣類は、貧寒としたものだった。
~中略~
この豊後の由布については、「豊後風土記」速見郡の中の記述が、よく引かれる。
此の郷ノ中に栲(たく)(こうぞの一種)ノ樹多(さわ)ニ生(お)ヒタリ。
常ニ栲ノ皮ヲ取リテ、木棉(ユフ)を造る。因(よ)リテ柚富(ゆふ)ノ郷トイフ。
考証じみたことが過ぎるようだが、ともかく私はこの由布院という地名が昔から好きであった。
考証じみたことのついでに、院とは、いうまでもなく、奈良朝のころの官設の倉庫のことである。
各地から田租を「院」におさめておく。とくに九州に院と付く地名が多いのは、一面、大宰府の統括力の強さをあらわしているといってもいい。
この「院」のつく土地に集積された田租がやがては大宰府に運ばれ、大宰府から京へ差しのぼらされるのである。由布院の場合、この官倉に集積された田租は、由布院→日田→大宰府というぐあいに運ばれたいった。
街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P120
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湯布院温泉下湯
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