久留島氏 [雑学]
それで、理解できた。(住人注;三島公園、別名童話公園に)碑があって、読んでみると、児童文学者の久留島武彦(一八七四~一九六〇)の顕彰碑だった。
久留島武彦といえば口演童話の草分けをなした巨人で、それがこの玖珠町森の出身であったことに、はじめて気付かされた。であればこそ久留島武彦の生涯を記念して桃太郎の銅像が建てられ、後縁の別称も童話公園になっているのであろう。
そのとき不意に、この豊後森の殿様が、久留島氏だったことを思い出した。
久留島氏はもともと伊予の来島水軍の大将で、豊臣政権下で一万数千石の大名になり、朝鮮侵略のときに水軍の一将となって出陣し、朝鮮の水師提督李舜臣と戦って当主の兄弟とも戦死した。
その後、徳川政権下になって家姓を久留島とあらため、伊予海岸から移されて、この豊後森の領主(一万二五〇〇石)になった。
徳川幕府の草創のときの大方針の一つは、水軍を絶滅させることにあった。
織田・豊臣家の水軍である熊野水軍の九鬼(くき)氏を、丹波の山奥に移封させたように、久留島氏も、この豊後森というような海とまったく無縁の山奥に移されたのである。
(この公園は、久留島氏の城跡ではないか)
とおもってまわりを見まわすと、山肌に張りついて枯山水の庭園が、遺跡のように残っている。枯山水は、久留島氏の屋敷跡の痕跡でもあるとも考えられた。考えてみると、一万石あまりの身上では大名ではあっても城持ちの資格がなく、城の代用の陣屋を持つことだけが許されるのである。
街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P154
P157
そのあと、私はやむなく自分の手持ちの資料類で調べてみると、およそのことがわかった。
久留島氏はここに移封されたとき、ツノムレ城址の山麓(童話公園の敷地)に陣屋を作った。
ところが、八代通嘉という人物が、よほど奇妙な自意識をもった男だったのか、幕府の目をごまかして城を築こうと思い立った。久留島氏の氏神の三島神社を改築するときうことを表むきにして、内々、あのツノムレの森の中に城を築いていまったのである。一八二四(文政七)年に起し、十三ヵ年を要して完工した。これが見つかればおそらく一万二千五百石は取り潰しになったであろう。
この無用の築城のおかげで、農民の上に重い租税と賦役がのしかかったに相違なく、その恨みは深刻なものがあったであろう。「喜藤次泣かせの石」を運ばせたのは、この八代通嘉だったのである。
いまなお、玖珠町役場が、これを森城とも角牟礼城とも、あるいは称しがたく思っているとすれば、この城の性格のあいまいさと伝承の暗さと無関係ではないと思われる。
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