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天領 [雑学]

司馬 前略~
これは徳川時代、幕府はむろん百姓の教育などに関心はない、さらに(住人注;江戸だけでなく、幕府の直轄領である天領という土地)藩領でないために武士階級という読書階級がそばにいない、自然学問を尊ぶ風がない、といったわけで、教養という土壌では荒れ地のまま明治維新を迎えた。
そういう土地からは、明治以後、長い間人材が出ませんでしたね。
 それで明治以後の人材というものは、少なくとも終戦までは大藩の出身者が多うございましたね。
それは教養というものは、何百年も耕して耕して来たことでできるらしいですね。

新装版 日本歴史を点検する
海音寺 潮五郎 (著), 司馬 遼太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
P32   

高塚地蔵尊 (7).JPG高塚地蔵尊

  海音寺 前略~ 江戸とか大坂とか京都とか長崎は大体天領ですね。こういう大都会の住民の生活は極楽ですよ。
 世界中で各歴史を通じて、あんな結構な市民生活はなかったと思うんです。ほとんど全部の市民が租税が一文もないんですから。

新装版 日本歴史を点検する
海音寺 潮五郎 (著), 司馬 遼太郎 (著)
講談社; 新装版 (2007/12/14)
P33  

P158
 日本の農村を考える場合、その土地が、江戸期において天領(幕府領)であったか、それとも大名領であったか、を考えておくことが重要であるように思える。
 強いて均(なら)していえば、天領はもともと豊かな土地が選ばれていたが、その上、租税も安く、農家はそのために年々生産に余剰を得て、その余剰分が商品経済に関係して行ったりして、百姓屋敷なども立派な場合が多い。
 たとえば、奈良県の大部分が天領であったことを思うと、大和平野に点在する村落の相(そう)の良さや、白壁屋敷の多いことなども、その要素を外しては考えにくい。
 江戸幕府は、これも概してのことだが、天領の行政は諸藩に対する模範であろうとする意識がつよく、そこへ赴任させる郡代や代官なども、いわゆる旗本八万騎のなかからよく人を選び、極端な性格の持ち主などは避け、温和で教養のある人物をさしむけていたように思える。
明治後の講談やテレビなどで善玉にやっつけられる悪代官が登場するが、この悪代官は大名領のそれか、旗本領のそれの場合が多く、天領の代官というのは、どうも人柄の質が違っている場合が多かったように思えるのである。
 天領の租税というのは、四公六民という江戸初期の原則が、ほぼつらぬかれていたようであった。  大名・旗本領の場合は、江戸期がくだるにつれて家政が窮迫し、そのぶんだけ苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)がはげしくなり、幕末ごろでは紀州藩などは六公四民もしくはもっとひどくなるという惨状を呈した。
紀州の場合、大和の天領と隣接している。天領である隣村の豊かさを見て、紀州領であることの不運をなげく状況も当然あったわけで、紀州人はいまでも紀州徳川家を懐かしむところが薄い。阿波も、租税がひどかった。このため、徳島県人は蜂須賀家を懐かしむなどという感情は、どうやら伝承としてもっていないようである。
 天領であった倉敷(岡山県)の場合など、
「天領根性」
 という言葉がいまでも残っているくらいで、隣接する備前岡山藩(池田家)領の領民の貧しさを嗤(わら)い、倉敷の豊かさを誇るところがあった。倉敷がもし天領でなかったならば、あれほど立派な民家群がこんにちのわれわれに残されるということはなかったであろう。

P161
道をゆきながら、数年前、京都で何人かの知人と過食したことがあったのを思い出した。
そのとき、たまたま天領のことが話題になった。
天領のよさについては、以上のようなことが言えるのだが、「あまり形而上的なものへの関心は発達しなかった」というようなことを、例外に触れることなしに言ってしまった。
 藩領にも、多少のよさがある。藩領の藩都は、武士という読書階級がざっと言って庶民と同数居住しているために、自然、庶民が影響をうけ、物品の大小や金額の高いやすいというような形而下的思考以外に、物事を抽象化して考えるという思考法があることを知った。さらには世の中は金銭だけが価値ではないということを知ったのも、江戸期という教養時代を経たおかげだが、その教養時代は、藩領において寄り濃厚であった。
 天領というのは、場合によっては生涯、武士の姿を見ずにすごせるのである。たとえば奈良県の場合、大和盆地の大部分と吉野山林地帯が天領だったが、これを治めていたのは、大和五条の代官所にいる十数人の侍装束の連中だった。また広大な河内国の田園地帯も、大阪城そばの代官所のわずかな人数の役人がおさめていたわけで、そういう意味からいえば、天領の百姓というのは、封建時代の封建美(行動の美といったようなもの) を薄くしかうけていなかったともいえる。東京都の三多摩地方もそうであり、山梨県の甲府盆地もそうである。
 その席上、私の念頭には、河内の風土のことがあり、倉敷や日田のような例外についての配慮が欠けていた。天罰はてきめんであった。私の筋むかいにいる大柄の、顔色が磨きあげたように色つやのいい紳士が、
「そういうことはありません」
と、いっさいの私の考えを否定してしまったのである。
~中略~
私は倉敷や日田はむしろ天領であるがゆえにその富を使い、緻密な教養と文化の伝統を築きあげたところだ、と言いなおしても、一度曲がってしまったかれは、怒りをこらえたその奇妙な笑顔を他の表情に変えようとせず、返答さえしないのである。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)

 むかし、この前神川の近くに倉敷代官所があった。この付近から四国の讃岐にかけて天領(幕府領)を支配していた代官の所在地で、大名領式でいえば倉敷は二十万石以上の城下町に相当するのではないか。
 将軍家の領地の各地から米が陸路や水路で運ばれてきて、それらをおさめるためにおびただしい数の蔵が建った。
 自然、富裕な町人も集まる。それらは在郷では地主をかね、多数の小作人をい率い、その形のままで終戦までつづいた。
(わしらは天領の町じゃけんな)
 という一格高い意識が、いまだに倉敷人のなかにある。とくに、おなじ県下の備前岡山の町と対比するばあいに濃厚に出る。
岡山の殿様は備前三十万石の池田家で、日本有数の大大名だが、しかし倉敷人はおどろかず、将軍家直隷ということでけじめをつけるのである。
 倉敷人の性格は何か、とこの土地できくと、三人に一人は、
「天領根性」
 と、誇らかに答えてくれる。天領はすでに百年前にほろびたが、しかし、街の誇りは失せていない。~中略~
 それほど、自負心のつよい町である。
 (昭和39年10月)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P476


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