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薩摩藩 [雑学]

薩摩には敵に対する優しさの話が多い。たとえば豊臣秀吉の朝鮮の役のときもっとも武勇のたけだけしかったのは薩摩の島津氏であるといわれ、このため明軍のあいだでもとくに薩摩兵のことを石曼子(シーマンズ)といっておそれた。
その島津氏が、帰国後、高野山に敵味方の戦死者の供養塔をたてているのである。
敵味方共にその無名戦士を平等に供養したという例は当時日本にはなく、その後もない。同時代の世界にもないことで、むしろ異様なことに類する。~中略~
クマソタケルを優しくていい男だといったふうな薩摩独特の美意識は、文献や実例としては中世末期から近代初期まで濃厚につづくのだが、ひょっとすると、上代の倭国における南方独立圏がつくりあげた独特のきぶんであったのかもしれない。

街道をゆく (3)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/11)
P130

DSC_0333 (Small).JPG朝光寺

P150
 肥後はつねに官であった。中央政権はつねに肥後まできた。が、この久七峠をさかいにして薩摩国は大げさにいえば島津氏七百年の独立国であり、とくに島津氏の勢威が確立確立した戦国以降、明治十年の西南戦争の終了まではこの国境は中央政権に対してさえ閉ざされていたといっていい。

P183
薩摩藩では富農が存在せず、それを成立させもしなかったというのは士族崩壊後の鹿児島県を知る上で重大なかぎであるかもしれない。
他の国々では農村の余剰資本が商業にまわって富商を成立させるのだが、薩摩藩ではそれも存在しなかった。 富農、富商という、伝統を溜めこんで洗練し、それを次代にうけわたしたり地域に拡散させたりする機能が存在しなかったというのは、要するに薩摩藩というものが、明治で藩がくつがえったと同時にすべてをうしなったということになるのである。

P190
薩摩人のおもしろさは、自分のおよそ普遍性をもたない特殊な方言を、それが鄙語(ひご)で卑しむべきだという劣等感を在来もっていなかったのである。
この点、東北人に共通する方言の上での劣等感にくらべてひどくちがっている。
 その理由は南方の風土性ということによるかもしれない。あるいは薩摩が維新でもって天下をとったからということもあるだろうが、本来、薩摩人が薩摩が実際的には地図の上で最南端に所在しているくせにその政治意識では僻地意識を奇妙なほどにもっていなかったことにもよる。
 その理由を根源的にいえば日本の水稲文化が、九州から発してしだいに東へ東へとすすんだという事実が、まず考えられる。 「古事記」「日本書紀」ではこれを事実として語らず、神話として語った。
天孫降臨や神武東征神話は神話の形式をとっているがためにかえってつよい心情を培い、南九州こそ日本国発祥の地であると言う自信をつよめた。
~中略~
 本居宣長も「古事記伝」で、
「隼人というのは、絶(すぐ)れて敏捷(はや)く猛勇(たけ)きがゆえにこの名がある」
としている。たしかに隼人というのは古代から戦場では勇猛であった。
「古事記」「日本書紀」の隼人関係の記述には多少の分裂がある。その祖を天孫族としている一方、どうも異民族もしくは南方的異族を持った連中だというふうな印象で書かれている記述が多い。
吉田貞吉氏は異族説をとっておられる。「日本記」の一書を引き、
犢鼻を着け、赭(そほにを以て掌に塗り、面に塗り」
というのは当時の一般的風俗から見ればあきらかに異俗であるとされる。隼人は独特の踏舞もする。
かれらは海で溺れかける所作をし、それを舞にした。これが整理され、「隼人舞」として上代の宮廷舞踊のひとつになった。
西村真次氏は台湾の高砂族と同系と見、水野祐氏は「日本民俗文化史」のなかで所説を紹介しつつ、
「南九州に漂着し、そこに定住して、漁業を生業としていたインドネシア人が隼人であると私は考えたい」
と、妥当な結論を出しておられる。喜田貞吉氏は。「隼人は風俗だけでなく言語もちがっていたようである」として、「肥前国風土記」の記述を引いている。
 そのように異風の隼人が、みずから僻地住人として卑下しなかったのは、上代から、ときに中央に対して大反乱をおこしたりはしても、常態としては中央の宮門の護衛者として不可欠の存在だったということが大きいであろう。
 そのことは、奈良朝のころから官制化されていた。天皇の即位のときにはかならず大隅と薩摩から隼人をよび、宮門に堵列(とれつ)させて護衛に任じさせる。その隼人の管理者は隼人司とよばれた。


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