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豊後日田 [雑学]

 豊後日田は、江戸期では三万二千石、堂々たる天領の地であった。土地ではヒダといわず、ヒタと澄む。
「日田は水郷です」
 と、由布院の宿の女中さんがいったが、この場合も、関東の潮来(いたこ)のように「水郷(すいごう)」とは言わない。スイキョウという。
 日田は高原をなして、いわば僻地というにちかいが、江戸時代は漢学がさかんで、広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)などは全国からこの遠国(おんごく)のそのまた不便な高原の町に子弟があつまり、門人三千余人といわれた。~中略~
 スイキョウなどという音(おん)も、この町に漢学書生が充満していたのと無縁ではあるまい。漢学者は、坊主よみといわれる呉音(郷の場合はゴウ)を卑しみ、漢音のキョウをとるのである。
「日田」
という地名について考えると、飛騨の国の飛騨と音が共通している。(日と飛が古代において同発音だったかどうかは不明として)ところからみて、ヒタとは、ある種の形態をそなえた高原のことを指すのであろうか。
 それとも、常陸(ひたち)という地名の語源がヒタミチ(直(ひた)な道)からきたともいわれるから、日田へのぼってゆく道が、「直な道」であるからだろうか。
岐阜県(美濃国、飛騨国)の古い道を考えてみると、美濃北部の金山あたりから飛騨の高山へゆくのに、下呂温泉を通って益田川に沿う道も、馬瀬川に沿う道も、めざす飛騨の国が山国にもかかわらず、険阻な峠がなく、道は直(ひた)である。
 それとおなじように、由布院から日田へも、玖珠川ぞうの道はいかにも直(ひた)で、高原へゆくような感じはなかった。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P160

高塚地蔵尊 (5).JPG高塚地蔵尊

P164
 日田の町は、典型的な盆地といっていい。四囲ことごとく山で、山々から運ばれてくる水は玖珠川や三隈川にそそぎ、それぞれの水流が、たがいに枝をなしたり、迂回路(バイパス)をなしたりして、なるほど水郷であった。
 しかも四囲の山々は、迫って威圧することなく、人の心を和らげるように遠山をなして、藍色にかすんでいる。

P179
ここはかつて漢学書生が町中を闊歩していた町なのである。
 江戸末期の日田が全国に有名であったのは、 広瀬淡窓の塾である咸宜園(かんぎえん)あるによってであった。
淡窓は、日田の富商の家にうまれ、年少のころ福岡で学んだだけで、そのあとは多病なために江戸などに留学せず、日田に帰って私塾をひらいた。
二十四歳で開講して五十年教えつづけた。その間、入門簿によれば三千八十一人という多数の青年がこの塾で学んだ。それらの出身地は奥州のはしから対馬まで及び、六十余カ国のうちで隠岐国と下野(しもつけ)国の二ケ国が欠けているだけであった。
 このように漢学書生が町中にあふれていたために、ついかれらのつかう漢語や漢語よみが、町の言葉の中に遺った。

P181
咸宜園は、往時は「外塾」と称する寄宿舎が三棟もあった。講義がおこなわれる建物は「内塾」といい、二棟あったといわれるから、相当な景観だったにちがいない。
 しかし淡窓の居宅だった「秋風庵」しか遺っていない。
その建物のそばに、
「史跡 咸宜園 日田市」
 というたてふだが立っており、建物はよく補修されていて、日本のわらぶき建築の一見本としても保存されていい価値をもっている。


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