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「サラリーマン」という職業 [ものの見方、考え方]

 大工さんには大工さんの金言がある。その職業技術の血統が、何百年をかけて生んだ経験と叡智の珠玉なのだ。植木職でも陶工の世界でも同じことがいえよう。
 さて、サラリーマンの場合である。いったい、そんなものがあるだろうか。私は考えこんでしまった。どうやらこの職業の伝統にはそうしたものはなさそうなのである。
 ないということは、この職業の本質そのものに関係がありそうな気がする。~中略~
 じつにサラリーマンたるや、きょうは営業課員であっても、あすは庶務課員もしくは厚生寮カントク員と名乗らねばならぬかもしれぬ宿命をもっている。「職業」がへんてんとしてかわるのだ。二十四歳で庶務課員となり三十年ひとすじに同業を貫徹いたしましたなぞは、この社会ででは尊敬をうけないのである。
しぜん、他の職業ほどには、職業そのものに関する金言名句が少ないのお無理はない。あるとすれば、職業そのものよりも、サラリーマンという悲しくもまた楽しい人生者としての処世の警句ぐらいのものであろう。
 私は、この本で日本のサラリーマンの原型をサムライにもとめた。そのサムライも発生から数百年間、サラリーマンではなかった。戦闘技術者という、レッキとした、末川さん(住人注;末川博 博士)のいう職業人であったのだ。~中略~
 ところが、徳川幕府の平和政策は、いちように彼らをサラリーマン化してしまったのである。もはや、刀槍をふりまあす殺人家としての金言は要らない。が、彼らのブッソウなキバは抜いてしまったものの、平凡な俸禄生活者としての公務員に甘んじさせるために何らかの”サラリーマン哲学”が要った。
 これが儒教というやつである。

司馬遼太郎が考えたこと〈1〉エッセイ1953.10~1961.10
司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P65

DSC_3739 (Small).JPG望雲台


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