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種子島 [雑学]

 歴史的に見て種子島はその独立時代(島津家との主従関係がなかった時代)、薩摩の内陸部から文化を吸収するよりも、じかに潮流に乗って上方へゆき、直接都の文化を吸収していたのではないかという想像が、いくつかの材料で可能なのである。
むしろ薩摩の内陸部より中央文化を受けた濃度が強かったのではないかとさえ思えるふしがあり、すくなくとも室町期あたりの種子島人にとっては薩摩の内陸部などは田舎くさく感じたというような優越感があったのではないかとさえ思える。

街道をゆく (8)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1995)
P227

P229
 このことは、天文年間の鉄砲伝来においても、想像しうる何事かがある。鉄砲を持ったポルトガル人がこの島に漂着したということは風浪がなした偶然で、漂着点が九州のどの海浜であってもいいのである。
 当時、島主はよく知られているように、種子島時堯(ときたか)であった。その背景に、紀州の根来寺の一員津田監物(けんもつ)(あるいは監物丞。名は算長)が長滞留していたということが、重要といっていい。
津田家はいまでも紀州粉河の奥のほうに残っているが、紀ノ川筋の大土豪で、根来寺(高野山から別派をたてて新義真言宗の本山になった寺)の僧兵の大将あるいは一山の政治経済に切り盛り役のようなことをしていた。
根来寺というのは戦国乱世のころには七十万石ほどの経済力をもっていたともいわれるから、津田監物の地位は大きかったであろう。
 そういう紀州きっての実力者が、上方からみれば夢のように遠いこの島の島主屋敷に長逗留していたということが、この島の位置を想像するのに手がかりになるといっていい。
根来寺が海外貿易をやっていたことは、たしかである。津田監物は貿易の主管者だったように思える。
当時独立国だった種子島もまた琉球経由であれ、直接であれ、対明貿易をやっていたことはたしかで、となると紀州根来寺種子島は貿易を通じて一体のような姿だったにちがいない。
~中略~
この津田監物が、種子島時堯からポルトガル製鉄砲の一挺もらったことが鉄砲の伝播になり、戦国の様相を、割拠から統一へむかわせる力をつくるにいたる。

P228
 鹿児島県の内陸部では、食物が美味であるということと砂糖の甘味とが、味覚表現として区別されておらずに、単に、
「ウマイ」
 という。むろんアマイという言葉はあるが、それは汁の薄味を表現する場合につかう。物の味の区別の表現が的確で細分化されているほど、その地方は文化的であるという結論引き出せないが、しかし単純なほうが高度な文化であるということはできない。


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