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新羅 [雑学]

「新羅」
 というこの妙なよみ方も、古来日本人が勝手にそう言いならわしてきたもので、その語源についてはいろいろおもしろい議論がある。が、いまはふれない。
 新羅国の歴史は、九百九十二年つづく。
 その始祖王といわれる王の存在が、紀元前一世紀、ヨーロッパではシーザー(カエサル)が活躍しているころだからじつにふるい。
 新羅は、高句麗、百済とともに併立して栄えたが、やがて他の二国をぬきん出るようになり、第二十九代武烈王のときに名宰相金庾信が出て百済の討滅をはかり、唐と連合してそれを実現した。
七世紀の半ば、日本の斉明・天智帝のときである。日本は百済を応援して、白村江において唐・新羅連合の水軍とたたかい、大いにやぶれた。おろかなことをした。
~中略~
 百済がほろんで、その亡命者が大量に日本にきた。日本は国家事業としてこれをうけ入れ、以後、かれらの力によって、飛鳥文化ができあがってゆく。
 その後新羅は二世紀半ほどつづいてほいろぶのだが、新羅がほろんだころには日本は平安期で、朝鮮半島文化にについての関心を失っていたから、たがいにほとんど無関心であった。
 話の年代をさかのぼらせる。新羅が百済をほろぼしたあとのことだが、妙なことに戦勝国であるはずの新羅からもどんどん人間が渡来してきて、飛鳥の日本の文化や生産に参加した。
 ―日本にゆけば優遇される。
 と、戦勝側の新羅人も考えたにちがいないが、かれらを動かして海に浮ばしめた直接の動機は政情不安やら内乱だったにちがいない。
朝鮮は半島国家であるだけにつねに政情不安がある。新羅は唐のたすけをかりたために唐の属領にちかいかたちになった。このため軋轢や政争というものが、日本への政治亡命者を間断なく出すはめになったように思える。
~中略~
日本の奈良朝以前の文化は、百済人と新羅人の力によるところが大きい。さらに土地開拓という点でも、大和の飛鳥や近江は百済人の力で開かれたといってよく、関東の開拓新羅人の存在を無視しては語れない。
百済・新羅から渡来したひとびとはたがいに敵国だったため、日本にきてからも仲がわるかったらしい。


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P82

DSC_0591 (Small).JPG斑鳩寺 (兵庫県太子町)


P87
 さらに朝鮮史のおもしろさは(私が勝手に面白がっているのかもしれないが)この金庾信将軍は古代駕洛国の最初の王である金首露王のお子孫だという。
駕洛国については以前述べたように金海地方を主たる根拠地とし、別称として加羅、大伽耶、任那などという呼び名がある。
駕洛国は、新羅国と百済国のあいだで、サンドウィッチのハムのようにはさまっている小国で、古くから日本をたよりにしていた。
「駕洛国(任那)が日本国を頼りにしていたということは、状況として考えられない。日本側の「日本書紀」が勝手にいっていることである」
 という説が朝鮮側にあるが、大筋としては私も賛成である。
古代の日本列島には、外国に兵力を出せるほどの強大な統一国家がうまれていなかった。しかしながら駕洛国は古くから韓人とモトの日本人である「倭人」の雑居地であったことは、諸資料から推してまずまちがいない。
だから、―金海や釜山付近の連中は純粋の韓人というより倭人の血がよろ多くまじっているといってよい、
 という言いつたえが朝鮮側にある。



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