SSブログ

朝鮮の役 [国際社会]

「唐入り」
 と称して軍勢を渡海させ、朝鮮を攻め中国に入り、その首都に日本の首都を遷そうと妄想したこの時期の秀吉というのは、自己肥大が昂じてすでに精神病理学の対象である以外のなにものでもない。李朝の治下で平和に暮らしていた朝鮮人こそいい面の皮であった。
 ただ軍令だけはきびしくふれ出している。
「乱暴はいっさいしてはいけない。放火や人さらいをしてはいけない。地下人(庶民)に対して勝手な労働をさせてはいけない。右に違反した者は厳罰に処する」
 というもので、私が資料で知りうるかぎりではチョンジン(住人注;加藤清正)自身はそれをよく守ったようにおもわれる。


街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著) 
朝日新聞社 (1978/10)
P93










DSC_0599 (Small).JPG鶴林寺 (加古川市)

P94
 朝鮮でいう壬辰(じんしん)ノ役は、日本軍が二度来襲している。二度目は日本側では慶長ノ役というのだが、このころは諸大名この理由のない侵略戦争に倦(う)み、戦意がなかった。しかしながら最初の役よりも苦戦をしたのは相手に強大な明軍が加わっていたことであり、清正の有名な蔚山(うるさん)籠城戦もこのときである。
 明という中国の軍隊のことを、当時の朝鮮側の表現慣習として、
「天兵」
という。意味は天子の軍、官軍のことである。
その「天兵」が鴨緑江をわたって諸道をすすみ、所定の集結地に大会同したのは、慶長二(朝鮮の宣祖三十一年)年十二月十九日のことであった。所定の「集結地」というのが慶州である。
 このとき仏国寺はすでに焼け跡にすぎなかったか、それとも新羅時代のままの堂塔伽藍をなおとどめていたかどうか。私の力では調べがつかない。ただこの慶州の地が、明軍の総司令官である邢玠(けいかい)の大本営になっていたことだけはたしかである。
 ともあれ、慶州仏国寺は豊臣日本軍による名分皆無という侵略戦の中で焼けおちた。

P196
 秀吉の朝鮮ノ陣にはどういう名分もない。弁護の余地などすこしもないが、暴虐は暴虐を生むものらしく、朝鮮を援けるばくやってきた明軍もこの地で相当な乱暴をはたらいた。
明の大将は日本兵を斬獲したとして、そのあたりの朝鮮人の首を草のように刈り取って本国へ送り、功名の水ましをしたという。朝鮮史の悲惨さはこのあたりにも象徴されるであろう。
私がもし朝鮮にうまれれば外国人という外国人に対していっさい信を置けない気持ちをもつに相違なく、同時にこういう外因が内因をつくりだしてゆくという法則を適用すれば同国人をも、かれらが敵味方のいずれかに通じているかもしれないということで、つねに油断なく他の挙動を見張っておくという猜疑心を知恵としてもつにいたるにちがいない。





nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント