沙也可 [国際社会]
という朝鮮のふるい漢文がある。
かつてそれを手に入れ、なんとなくながめているうちに、おどろくべきことが書かれていることを知った。
豊臣秀吉の朝鮮の役(朝鮮にあっては壬辰ノ倭乱)のとき、兵三千人をひきいる日本の武将が朝鮮側に降伏したというのである。
かれはのち武功をかさねて王寵をこうむり、武官ながら二品という大臣相当の官位にまでのぼり、土地をたまわってその族党や家臣が一村をなし、その子孫が無事泰平の世を楽しんでいるという意味のことが書かれているのである。
その漢文の文体は、
「余ハ即チ東夷(日本)ノ人ナリ」
という冒頭の文句からはじまっているところからみて、武将そのひとの手記の体(てい)をとっている。
街道をゆく (2)
司馬 遼太郎(著)
朝日新聞社 (1978/10)
P118
P153
やがて細流に達した。
流れはやや涸れ気味で、大小の小石が白い背をみせている。道はその流れに沿ってわずかずつ登りになってゆき、やがて三方を山でかこまれた、日本の関東地方でいう「谷津」といった風景の入り口に達した。
「これはあれですね」
と、私はミセス・イムに言いかけて、あとはのみこんだ。倭人がつくりあげた田園風景ですね、といいたかったのだが、言うことが物憂くなるほどに、この農村の風景は日本人くさい。
その濃厚な特徴は、山がうまく利用されていることであった。
むかしから朝鮮の特徴のひとつに禿山があげられる。事実としていっておかねばならないが、これは日本帝国主義が禿げさせたのではなく、日韓併合以前の文献にも出ている。
~中略~ 上古にも朝鮮の山々にはしげっていたにちがいなく、新羅の全盛期にはその王都の慶州の民家のほとんどが瓦ぶき(いまはかやぶき)であったという。それだけの瓦を生産するには豊富な薪が要るから山には樹があったであろう。
その後、いつのほどからか冬季の燃料のために乱伐され、そのあと植林するされることがなかったにちがいない。
~中略~
沙也可は壬辰倭乱(秀吉の朝鮮の役)がおわったあと、この友鹿洞にひきこもった。妻もめとった。~中略~ 彼の配下だった降倭たちの何人かがかれとともにここに住んだであろう。住むために山谷を開墾したにちがいない。
友鹿洞は、いまは七十戸。
ことごとく金姓で、慕夏堂沙也可の子孫ということになっている。正しくは慶尚北道達城郡嘉昌面友鹿洞。
その風景は他村とはちがい、山には樹があり、山の腰には竹藪をつくってこれを取り巻かせ、それらの高所の樹林から細流をながし、その水によって田畑をうるおす仕組みになっており、なにやらおかしいほどに倭人のやりかたである。
沙也可の子孫で構成されるこの友鹿洞(慕夏堂)の村は、全戸が「両班(やんばん)」なのである。
両班は日本風に強いて翻訳すれば士族階級ということになるが、厳密には村落貴族とも考えられるし、ときには大官に付属する特権的家柄ということにもなり、いずれにしても常民階級や奴婢階級の上に立ち、李朝時代は言葉から生活規律まで常民とは違っていた。
P160
「 慕夏堂文集」
には、そういう沙也可の功が強調されている。むろんその功は事実であったであろう。しかし「慕夏堂文集」そのものは沙也可六世の孫の金漢祚の偽作―事柄は事実であっても―だったにちがいなく、そのことはすでにふれた。
P169
私はミセス・イムに、あの老人の名と齢をきいてもらえまいか、とたのんだ。
彼女は老人にじかにはきかず、他のものに聞いた。
金容熙(キム・イヨンヒ)先生、七十七歳です」
と、村の人は憚(はばか)るように、声をひそめていった。
老翁はひどく痩せていたが、丈はたかく、背筋もしゃんとしている。その相貌はいかにも漢学的教養がつくりあげたという感じで、威厳と快い軽みがあった。~中略~
彼女は沙也可とか金忠善将軍とかいうような名前を出し、この村がかって日本武士の村であるというので、このイルボン・サラムたちはやってきたのだ、という意味のことをいった。
それに対し、老翁ははじめて口をひらいた。低い声であった。
「それはまちがっている」
と、老翁はゆったりとした朝鮮語でいうのである。それはというのは、そういう関心の持ち方は―という意味であった。
「こっちからも日本(むこう)へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべきではない」
と、にべもなくいったのである。
ミセス・イムの通訳がおわると、私はのそのにべもなさが可笑しく、声をあげて笑ってしまった。
老翁がわれわれに語ったのは、それだけであった。言いおわると老翁は私の顔をみて、はじめて微笑した。
コメント 0