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夜ばい [雑学]

後藤 ほんとにかわりましたのう。夜ばいもこの頃はうわさもきかん。はァ、わしら若い時はええ娘があるときいたらどこまでもいきましたのう。美濃の恵那郡の方まで行きましたで・・・・。
さァ、三、四里はありましょう。夕ハンをすまして山坂こえて行きますのじゃ、ほんとうに御苦労なことで・・・・。
  わしら若い時ゃ 恵那までかようた 恵那の河原で夜があけた
という歌がありますが、ほんとであります。女の家へしのびこうで、まごまごしていると途中で夜があけたもんです。
 すきな娘があったかって?そりゃすきな娘がなきゃァ通わないが、なァに近所の娘とあそぶだけではつまらんので・・・。無鉄砲なことがしてみたいので。
金田茂 今の言葉でいうとスリルというものがないと、昔でもおもしろうなかった。はァ、女と仲ようなるのは何でもない事で、通りあわせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手がうけ答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押しかけていけばよい。こばむもんではありません。親のやかましい家ならこっそりはいればよい。~中略~
みなそうして遊うだもんであります。ほかにたのしみというものがないんだから。そりゃ時に悲劇というようなものもおこりますよの、しかしそれは昔も今もかわりのないことで・・・・。

忘れられた日本人
宮本常一 (著)
岩波書店 (1984/5/16)
P78

DSC_4606 (Small).JPG求菩提山

P97
この村に言いごとのすくないのは、昔から村が貧乏であったおかげでありましょう。とびぬけた金持はなかった。それに名主は一軒一軒が順番にやっております。小作人でも名主をしたものであります。それはいまもってつづいております。今も区長は順番にやることになっております。はい、それはこの村だけでありません。このあたりの村はみなそうでありました。
 そういう風でありますから、嫁どりもそれほど家柄をやかましく言う者はいなかったのであります。まァ親類中に年頃の娘があればそれをもらう事にしておりました。それはなるべく費用がかからんようにということからでありました。
 そうでないものでも、本人同士が心安うなるものが多くて、親は大ていあとから承諾したものであります。はァ、申すまでもなく、夜ばいは盛んでありました。気に入る娘のあるところまではさがしにいって通うたものであります。しかしなァ、みながみなそうしたものではありません。一人一人にそれぞれ性質があり、また精のつよい物もあれば弱いものもある。~中略~
しかし、みな十六、七になると嫁に行きますから、娘がそうたくさんの男を知るわけではありません。よばいを知らずに嫁に行く娘も半分はおりましたろう。
若い者がよけいにかようのは、行きおくれたものか、出戻りの娘の家が多かったのであります。はいはい、よばいで夫婦になるものは女が年上であることが多うありました。それはそれでまた円満にいったものであります。はい、男がしのんでいっても、親はしらん顔をしておりました。あんまり仲ようしていると、親はせきばらい位はしました。昼間は相手の親とも知りあうた仲でありますから、そうそう無茶なこともしません。
 さァ、親におしつけられた嫁というものが七十年まえにありましたろうか。この村にはありません。よい仲をさかれたというのはあります。
知らん娘を嫁にもらうようになったのは明治の終頃からでありましょう。その頃になると遠い村と嫁のやりとりをするようになります。おのずと、家の格式とか財産とかをやかましく言うようになりました。それから結婚式がはでになって来たので・・・。・それはどこもおなんじことではありませんかのう。


タグ:宮本 常一
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