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豊臣秀吉 [雑学]

秀吉がよほど運のいい男だといえるのは、かれが天下をとるや、まるでそれを待っていたかのように、日本の処鉱山の黄金の産出額が飛躍的に上昇した。「太田牛一雑記」にも「秀吉公御出世以降、日本国には金銀山野に湧出」とある。
鉱山市の資料をみても、この時代から江戸初期にかけては、日本は世界屈指の金産国であった。ゴールドラッシュ時代といえるのではないか。
 秀吉は、「山野に湧出」した黄金を湯水のように使って天下を安定させた。


司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10

司馬遼太郎 (著)
新潮社 (2004/12/22)
P35

伊勢神宮 外宮 (31) (Small).JPG伊勢神宮 外宮


司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈2〉エッセイ1961.10~1964.10 (新潮文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/12/22
  • メディア: 文庫

 今日までの歴史家の多くは、朝鮮出兵を豊臣秀吉の個人的野心と無知による誇大妄想のせいに帰している。確かにこの出兵には、小西行長らの外国通も石田三成らの行政官僚も前田利家、毛利輝元ら大領主も反対だった。堺、博多の商人も抵抗した。そうした点から見ると、秀吉一人の無理強いにも見える。
 だが、いつの場合でも失敗した事業にはただ一人の責任者しか出ないものだ。~中略~ そこには、強力な推進力と避け難い事情が存在したはずである。
 おそらくそれは、急成長を遂げて来た日本社会と豊臣政権の成長機構 そのものであったろう。
つまり、次々と四隣を制圧して天下を取った豊臣政権には、急速に成長を続けるための機構ができ上がり、成長体質があふれていた。
それが、全国統一の結果、働き場所を失ったため、組織的な不満が充満するに至ったのだ。現実的ではあったが、情緒的家族主義者でもあった豊臣秀吉は、自己の政権を築き上げるのに大功のあったが、成長機構―軍事征服機構―を弾圧することができず、次の働き場所を朝鮮にもとめたのであろう。
~中略~
 一六世紀末において、世界一流の水準の技術と経済力を持っていた日本の政権が、軍事的拡大という従来のパターンの続行以外に成長継続の方法を思いつかなかったことはまことに悲劇的である。だが、そのあとを継いだ徳川幕府が、成長要素の大幅な粛清による停滞社会への回帰へ走り込んだこともまた不幸であった。


歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか

堺屋 太一(著)
日本経済新聞社 (2004/3/2)
P65

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

歴史からの発想―停滞と拘束からいかに脱するか (日経ビジネス人文庫)

  • 作者: 堺屋 太一
  • 出版社/メーカー: 日本経済新聞社
  • 発売日: 2004/03/02
  • メディア: 文庫




秀吉がこの城(住人注;佐賀県唐津の肥前名護屋城)を拠点に大陸征服を狙ったのは事実だが、この男は征服そのものより、自分の意思に人が従い、物が集まるさまを可視化するのが、生きる目標であったように私は感じている。
~中略~
前半生、不当に卑しめられてきたことへの反動であったろう。おのれの権力の可視化こそが彼の快感であった。
 ただ、この秀吉の我儘(わがまま)は日本政治史に大きな副産物をもたらした。日本中の大名と重臣・兵卒までが一か所に集結して対外戦争をやったため、天下・統一国家日本の現物を日本中の人間が見てしまった。日本は一つとの国民国家思想の形成の前処理がここで済んだ。

日本史の内幕 - 戦国女性の素顔から幕末・近代の謎まで
磯田 道史 (著)
中央公論新社 (2017/10/18)
P117


佐賀県唐津市鎮西町名護屋



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