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うどん [雑学]


 うどんの漢字は饂飩と書く。その名は、奈良時代に中国から伝えられた唐菓子の、餛飩(こんとん)からきている。だが、実態は餺飥(ハクタク)がうどんの元祖である。なまって、ほうとうとも読む。小麦粉を水で練ってひも状か団子状に切り、煮込んだものである。
室町時代に切麦(きりむぎ)があらわれ、やがて太目のうどんがうまれた。切麦はより細く、暖めたのを熱麦、冷やしたものを冷麦(ひやむぎ)という。冷麦がいまにも生き残った。
うどんは江戸時代に入って広く普及した。西日本、とくに大阪や京都や四国の讃岐で好まれ、うどん屋が増えた。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P50


大阪学

大阪学

  • 作者: 大谷晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/05/24
  • メディア: Kindle版

 



DSC_1671 (Small).JPG吉野ヶ里遺跡

P52
 きつねうどんが大阪で誕生したのは確かだが、それがいつだったかは確定できない。明治十年代が有力である。
信太ずし、一名いなりずしが先にあった。油揚げを三角に切って飯を入れる。その薄揚げをうどんに応用した。あの濃く煮た油揚げと淡いだし汁が混ざるその味がうけた。
~中略~ 京都の千枚漬も明治初年にできたとされているが、新時代とともに新しい食品生まれてくるのである。

P59
 きつねと言えば、たぬきと来る。日本中どこへ旅をしても、きつねうどんと注文するとうどんの上に油揚げがのって出てくる。どこの土地でも、きつねは油揚げが好きらしい。
もっとも、油揚げを細かく刻んだものがあり、これは東に多い。この場合は、あまり味付けをしていない。関西では、濃く煮た油揚げを一枚か二枚のせる。ところが、たぬきは全国区ではない。
 大阪のたぬきは、そば台のきつねに決まっている。それが隣の京都でたぬきを注文すると、「おうどんのどすか、おそばのどすか」ときっと念を押される。京のたぬきは、きつねうどんにあん掛けをしたものをいう。
注文が違う、とよく悶着が起きるらしい。京と大阪でもこうだから、たぬきはきつねよりもよく化ける。以前、筆者は旅に出ると、たぬきをよく注文したものである。 
 東のうだん屋には、きつねうどん、きつねそば、たぬきうどん、たぬきそばという丁寧に並んだメニューが張り出されているのにまず驚く。ここでたぬきと呼ぶのは、揚げ玉をのせたうどんである。天ぷらの揚げカスのことである。大阪では天カスと呼ぶ。
別に作っていると称しているけれども、天カスは天カスに過ぎない。だし汁に浸して油気をつけるぐらいの役目しかない。
 大阪では立ち食いうどんの店にこの天カスを丼に盛り上げてある。タダでいくらでも振り掛けられる。うどんが見えないくらい掛けているおじさんがいる。
ところが、東京では、かけとたぬきの間に三十円から五十円の差がある。つまり、天カスの代金を取っている。

P60
 西の方でも、筆者はたぬきを探した。九州ではなかなか見つからない。やはり、きつねの方が広く行き渡っていた。ところが、北九州は小倉の無法松の碑のある寺の近くのうどん屋で、ついに東国風たぬきを捕まえた。ただし、そんな名は献立表にはない。隣の客がそのたぬきを食べている。
あれは何だと店の人に尋ねた。「ハイカラうどんですばい」という。あわてて注文し直す。間違いない。ここでは、名前を化けている。
 明治以来の九州の文化は、大阪よりも東京に近いのを確認することができた。とくに、東日本と九州の食品消費の傾向が類似していることは、鈴木秀夫「日本人の食生活」で立証されている。
おそらく明治の終わりごろに、東国のたぬきが九州にやってきた。九州の人たちは東京の方からお出でなさったのだからハイカラだと錯覚したのだろう。
ハイカラといいう言葉が流行しはじめたのは、明治三十年(一八九七)あたりからだった。
この旅から帰ってすぐ、筆者はいまの大学に勤めた。大学食堂で、あっと思った。ハイカラうどんとハイカラそばがある。あの東国風のたぬきである。調べたら、依託経営者が九州の出身だった。

大阪学

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  • 作者: 大谷晃一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2013/05/24
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