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上田秋成 [雑学]

 西鶴が死んで四十年して、大坂の曽根崎新地で上田秋成が生まれた。享保十九年(一七三四)だった。堂島の島屋という大きな商家にもらわれた。紙や油を商う。~中略~
 二十八歳で養父が死に、家産を継ぐ。暮らしに不自由がないのをいいことに、好きな文芸や国学にふけった。明和三年(一七六六)に、浮世草子「諸道聴耳世間猿」を出して作家として世に出た。
翌年に「世間妾形気」を書く。だが、西鶴にはじまった浮世草子はもう低落していて、秋成はあきたらない。
「雨月物語」をほぼ書き上げたのは、明和七年(一七七〇)だった。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P160



DSC_1686 (Small).JPG吉野ヶ里遺跡

P162
 秋成は本居宣長と大論争を起す。宣長が昔を絶対、日本を絶対とするあまり、非合理な復古を主張している。これに食ってかかる。~中略~
 その考えはあくまでも合理的で、広く、柔らかい。浪漫的な怪異小説を書いていても、秋成はやはり大阪人であった。
 この論争は今ならだれが見ても秋成の勝ちであろう。だが、宣長は膨大な弟子を擁し、幕府や紀州徳川家や朝廷と結びつく大学者である。一方の秋成は、一介の町医者に過ぎない。世間は権威ある宣長に軍配を上げた。
真実を解した人は沈黙した。みじめに傷ついたのは、秋成だった。現在にもよくある風景である。
「癇癖談(くせものがたり)」を書いた。当時の世相や人心の堕落のさまを写した。とくに大坂は金がすべてを支配し、虚偽が横行している。それへの憤りをこの本にたたきつけた。これは西鶴が写した大坂の後日であり、他の一面でもある。
へそ曲がりとか、偏屈だと秋成は人にいわれる。

P164
文化六年(一八〇九)六月二十七日に、秋成は七十六年の生涯を終えた。その墓のある南禅寺畔の西福寺の住職は、「大坂出生歌道之達人」と過去帳に書き入れた。やはり、秋成は大坂人であった。



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