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大塩平八郎 [雑学]

 大塩平八郎の洗心洞は、「天満風のわがまま学問」と人にいわれた。彼は代々の大坂東町奉行所の与力の家に、寛政五年(一七九三)に生まれた。
文武に励み、儒学を学ぶ。権威的で形式的な朱子学にあきたらず、陽明学を信奉した。陽明学は儒学の一派で、学問の実践を尊ぶ。三十八歳で隠居し、自宅に家塾の洗心洞を開いた。いま大阪市北区天満一丁目の造幣局構内に、「洗心洞跡」の碑がある。そこに、天満与力の役宅があった。
 大塩は町人ではない。幕藩体制に連なりながら、官学である朱子学よりも簡明で実行力のある陽明学に傾いた。自由な大坂の儒学の雰囲気のゆえであろう。
 自分が思ったことは絶対に正しいとする。かんしゃく持ちで、激情家である。~中略~
 凶作が続いた。豪商が米を買い占め、米価がつり上がる。耐えかねて、群衆が米屋に押しかけて打ち壊す。~中略~ 大塩は収拾策を上申したが、無視された。三井や鴻池に救済資金の借り入れを申し入れ、断られた。大塩は激憤した。蔵書を売り払い、貧しい人に銭を分ける。天保八年(一八三七)二月十九日だった。大塩は四十五歳になっている。
 東西両奉行所はあわてて混乱していた。一挙にそこを突けば、どうなっていたか分からない。が、反対方向へ進み、汚職のうわさのある役人の家に大筒を打ち込む。次は北浜に現われて鴻池や三井から金と米を奪い群衆に与える。そこへ奉行が押しかけ、大塩勢は逃げ散った。
大塩は、靭(うつぼ)にある大塩家出入りの商人の離れに潜んだ。同年三月二十七日に捕り手に包囲され、火を放って自殺した。
 大塩一党の放火で、天満と北船場の一万二千五百戸が焼けた。が、人々は大塩に同情を寄せる。それは幕府の政治権力への大坂の批判であった。幕府の軍事力が案外にもろいのが暴露され、倒幕運動の口火になった。
 彼は幕府を打倒して権力を奪う気は毛頭ない。反乱の計画も組織づくりも、実に大まかである。議論より行動に走る大阪人一面が見られる。

大阪学
大谷 晃一 (著)
新潮社 (1996/12)
P176




DSC_1693 (Small).JPG吉野ヶ里遺跡





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