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富士山噴火 [雑学]


最後の大々的な噴火は一七〇七年。旧暦一〇月四日に宝永地震がおきて激震と大津波が太平洋岸を襲い、その直後、一一月二三日に富士山が噴火した。
~中略~ 一七三八(元文三)年に今の浜松市西区雄踏町山崎にいた豊田腔九右衛門という男が、子孫に自分の人生経験を語り残したものだった。~中略~
「宝永四年亥の十月四日、昼の九つ時(正午頃)に大地震。高山がさけ、大地が避け、自分の屋敷、上の山組屋敷、土蔵が押しつぶされたが、家内の者に一人もけがはなく前の畑へ逃げ出した。しばらく過ぎ、津波が打ち上げて来たので山へ逃げ上がった」
~中略~
 それから四九日後、富士山が大噴火した。九右衛門は書いている。〔同月(翌月の誤り)二十三日、富士山が焼け、おびただしく、こくう(虚空)鳴り響き、その夜、五つ時(八時頃)、東の方に火出で空を飛び散り、何とも知れず、ただ火の雨降り、世界も今滅するかと、女・わらんべ(童)なき騒ぎ申し候」。~中略~
富士山噴火はたくさんの史料が残されているが、江戸人の観察眼はたいしたものである。とくに感銘をうけるのは愛知県田原市で書かれた「金五郎日記歳代覚書」である(「新収日本地震史料」第三巻別巻所収)。
「富士山と足高山(愛鷹山(あしたかやま)の間に、須走(すばしり)と言う所に、火穴(噴火口)があき、それより火炎が吹き上げた。富士山より三倍の高さに見えた」
~中略~
「この火炎に土砂が混じり、西風が毎日吹き、これにより、東国へ砂が降り、富士より東七ヵ国が潰れた(甚大な農業被害が出た)。江戸も砂の厚さ四、五寸(一二~一五センチ)も積もった。
火穴近所の村里は砂の厚さ一丈(三メートル)も積もり田地はもちろん村里が潰れた」
 江戸の降灰を金五郎は一二~一五センチとするが、環境防災学の故・宮地直道氏の研究では三~四センチ。火山灰は南関東一円を覆った。~中略~
 一度、富士山が噴火すれば、我々は半月間、火山灰の闇を覚悟せねばならない。大量の空気が要るガスタービン式の火力発電所の電力をどのように安定供給するかなど、金五郎の話は我々に重い課題を突き付けている。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史
(著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P39


天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書

 



P42
トラフが動いて東海地震や関東地震がおきた場合、どれくらいの確率で富士山が連動して噴火するのか。
小山教授が明らかにした富士山の過去の噴火パターンから、ある程度は推測できるかもしれない。つまり、東海地震や関東地震がおきる時には、一三回中五~六回=四割前後の確率で、前後二五年以内に富士山の噴火がおきるという心積もりは必要なようである。

P43
宝永の富士山噴火の前兆現象については代表的な史料が二つばかりある。
 一つは、御殿場市山之尻の滝口家に残された「元禄十六(一七〇三)年大地震及び宝永四年富士山噴火覚書」(「御殿場市史 二」)。
もう一つは、裾野市須山の富士山資料館で保管されている土屋伊太夫「富士山噴火事情書」(「裾野市史 第三巻」)である。
富士山は信仰の山だから、御師といって参拝・宿泊をガイドする登山旅行案内人がいた。
土屋伊太夫はその御師の一人で、富士山噴火について克明な記録を残している。これらの史料によると、富士山は前触れなく噴火したのではない。
 実は、富士山噴火の四年前、一七〇三年に相模トラフが動き、元禄関東地震があった。
この大地震以来「地震は、軽くはなれども(宝永噴火の)亥年(いどし)まで、五年間、揺り止む事がなかった」。富士山周辺では軽い地震が五年間続き、噴火に至った。噴火直前、富士山では火山性地震が絶え間なく続いた。
~中略~
 富士山が噴火する時は五年前から軽い地震が増え、二ヶ月前から富士山山中だけの火山性地震が毎日続く。前回の宝永噴火の時は、そうであったと、古文書からうかがえるのである。


天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災 (中公新書)

  • 作者: 磯田 道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2014/11/21
  • メディア: 新書

 


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