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山内一豊 [雑学]

この山内夫妻がたった一人の愛児を天正地震で失った被災家族であったことは、今日あまり知られていない。
 天正地震がおきた時、山内一豊は、近江(滋賀県)の長浜城主であった。
~中略~
一五八六年一月、旧暦の天正一三年一一月二九日の夜中、長浜城は激震に襲われた。地盤は沈み、城下町ごと崩壊した。悪いことに、城主のの山内一豊が不在であった。
秀吉の甥・秀次の家老であったから京都に在り、妻と家老が留守を預かっていた。
 山内一豊と妻のあいだには「およね」という数え六歳の女の子がいるだけで、この子をたいそう可愛がっていた。
天正地震は、あろうことか、一豊の妻とおよねが寝ていた長浜城の御殿を一瞬にして、つぶした。
 その悲惨な光景については、山内家家臣の功績録「御家中名誉」が克明に記している。真っ先に駆けつけてきたのは、家老の後藤市左衛門であった。
~中略~
 この自分の山内家は二万石([武家事紀」)。足軽まで入れてようやく五〇〇人を超えるかという小さな家中と想像されるが「城内で(家臣の)乾彦作をはじめ数十人が相果」てた。
「建物が潰れた下から出火した所も数々あり、火災で焼死した者も少なくなかった。家中の人数が駆けつけ漸(ようや)く消し止めた」とある。
地震で建物が倒壊し、幼児など災害弱者の死に直面しながら、地震火災の消火を強いられるさまは、平成の世を生きる我々にとっても、まったく、他人ごとではない。

天災から日本史を読みなおす - 先人に学ぶ防災
磯田 道史(著)
中央公論新社 (2014/11/21)
P5


天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災 (中公新書)

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  • 作者: 磯田道史
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2016/07/08
  • メディア: Kindle版

 


P8
 長浜でも武士町人が寒空に焼け出された。山内一豊の妻が「捨子(すてご)」をみつけたのは、その直後のことであった。
およねを失い、愁傷ひとかたならぬ時、左右の者がいった。
「城の外で捨子をみかけました。藁の編みカゴに入れられ、短刀一口がそえてあったので、武士の子ではないかと」。一豊の妻は憐れに思った。愛娘を失ったさみしさもあり、この男子を育てたくなった。
拾ってこさせ、「拾(ひろい)」と名付け、養育をはじめたのである。~中略~ はじめは「およねの供養になる」と思い、養ったのだが、だんだん情がわいてきて、一豊などは「俺には実子がない。丁度いい。養子にしよう」とまでいいだした。
 だが、一豊は有力大名への階段を上りはじめる。家中の手前、甥がいるのに、拾に跡を継がせるわけにはいかなくなった。
山内夫妻は一〇歳になった拾と話しあい、拾を京都の妙心寺に入れ、学問をさせることにした。学費として「黄金百枚」を用立てた(細川潤次郎「山内一豊夫人若宮氏伝」)。
 拾は優れた学才をもっていたらしい。湘南宗家という高名な学問僧となり、土佐藩を土佐南学で知られる学問藩にする貴重な人材となった。
また山崎闇斎という大学者を育てた。のちに山崎は会津藩主・保科正之に仕え、同藩の学問レベルを大きく引き上げた。
江戸初期は学者が少なく一人の存在が大きい。土佐・会津という幕末を動かした両藩の学問水準の高さは、山内夫妻の震災孤児支援と無関係ではない。
 山内一豊の妻について、私は教訓じみた「馬買い」の話よりも、こちらの話しのほうが、よほど知られるべきだと思っている。自身は不運だが、人の優しさで幸運のきっかけにも転化できる。震災後こそ、人の生き方が大切であると、つくづく思う。


天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災 (中公新書)

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