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神道の聖域 [雑学]


 もともと聖域のシンボルとして以下のような区分けが考えられる。(上田正昭「神道の聖域」「仏教」no.32(特集=聖域)、法蔵館、一九九五年、三八頁。)
①神籬(ひもろぎ)
②磐座(いわくら)
③磐境(いわさか)
④神奈備(かんなび)
⑤杜(もり)(神社)

 もちろん、①から⑤へと進化していくことになるわけだが、それらのいくつかは同時に存在することもある。以下、簡単に説明を加えてみよう。
神籬は「神事をとりおこなう際、臨時に神を招請するため、室内や庭に立てた榊(さかき)。しめ縄を張って神聖なところとする。
古くは、祭りなどの際に、周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて紳座とした場所」を指している(大辞林(第二版)三省堂、一九九五年、二一九三頁)。
磐座はそこが聖域であることを示す特別な石または石組みのことであり、磐境はその規模が大きくなったもので、特に大きな石組によって特徴づけられる。
神奈備は神座(かみくら)の山や丘を指す。杜(もり)についてはご存知のとおり。そこには祀る側の 人間の意思が反映されることになる。
 それらの場所において、古来、人びとは祈りを捧げ、祭事を執り行ってきた。しかし、そもそもは何もないところに結界を作って神を下すのが祭事の始まりであって、磐座はそのための目印だったのではないかと思われる。
後になって目印そのものをご神体としたり、そこに社殿をつくって特別な礼拝所として、人びとが恒常的に祈りを捧げる場所としたのであろう。
 祭場の推移を示唆する遺跡については、福岡県宗像郡沖ノ島の祭祀遺跡などいくつか知られているが、簡単にいうと、山中の巨岩(磐座)そのものへの信仰から、次第に祭場が分離して、困難な岩場から通りやすい平地へと場所を移してきた経緯が読みとれよう。
カミ観念の発展と祀り場の変遷との間には密接な相関関係がある。このことは沖ノ島の祭祀遺跡の場合のみならず、かなり広範囲にみられる現象であり、たとえば、奈良県天川村の山上ヶ岳(一七一九メートル。大峯山または金峯山と呼ばれることもある)の山頂祭祀によって形成された遺跡の場合にも当てはまる。

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く
植島 啓司 (著), 鈴木 理策=編 (著)
集英社 (2009/4/17)
P60


世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
  • メディア: 新書

 


DSC_3001 (Small).JPG宗像大社

P64
もともとは「竜ノ口」という岩裂が信仰の対象となっており、そこで祭祀が執り行われていたのだが、そこの社が作られるとともに護摩壇が置かれ、時を経るにしたがい、行場としての性格を確立していったわけである。崇拝対象が「竜ノ口」から蔵王権現に移るとともに、いよいよ山上蔵王堂が拡張されていく。
時枝務は、それについて、以下のように述べている。「蔵王権現が顕在化した一一世紀が大峰山の山岳宗教にとって大きな画期であったことはまちがいない。蔵王権現が修験道独自の神格であり、その崇拝者が修験者であると考えてよいとすれば、一一世紀こそは修験道が成立して時期と判断できるのである(時枝務 「修験道の考古学的研究」 雄山閣、二〇〇五年、二九頁)」。

P130
 聖地には、たしかに神が降臨したと思われる場所と、人が一方的に神との交流を求めようとして設営した場所とがある。
それらが一緒くたにされていることが問題なのである。そうはいっても、ここでお断りしておかなければならないが、後者がまったく無意味だというわけではない。
人びとが集まり祈りを捧げる場所は、それでもなお「神を現出させる」ことがあるからである。多くの人びとが集まり祈りを捧げることによってそこが特別な場所へと変化するといった例も少なくない。
むしろ逆に、手つかずの自然に神が宿ることなどけっしてありえないのである。人跡未踏の地に神の姿を見つけることはできない。


世界遺産神々の眠る「熊野」を歩く (集英社新書 ビジュアル版 13V)

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  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2009/04/17
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タグ:植島 啓司
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