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アメリカに善意があった頃 [国際社会]

 咸臨丸の太平洋横断航海(一八六〇年)のときも、客であるブルック米海軍大尉が、このなかで物事ができるのは中浜万次郎(幕府の軍艦教授所の教授)ぐらいのものじゃないか、という旨のことを書いている。
 当然なことで、万次郎は十四歳のときに漂流してアメリカの捕鯨船にひろわれ、操船を実地にみにつけただけでなく、その後、救助してくれた船長の無償の善意によりフェアーヘブンの町で養育されたひとなのである。
その間、私塾で数学などを学ばせてもらい、かつバートレット校にも進学した。かれはここで、高等数学、測量術、航海術などをまなんだのである。首席で卒業したといわれる。
ブルック大尉が感心したのもあたり前のことで、このとき三十三歳の中浜万次郎はベテランの航海経験者だったし、平均的なアメリカ人よりも高い教育をうけてもいた。中浜万次郎についてのいっさいは、アメリカ人の善意の所産といっていい。
 明治期、移民をのぞく渡米者は、たいていの人が、大なり小なり、万次郎が受けたような善意に遭遇している。ただしその多くは既成階級の多い東部でのことで、排日の拠点であった西海岸でのことではない。
 明治外交史上の巨人である小村寿太郎(一八五五~一九一一)にしてもそうだった。
 小村という人は、その名声にひきくらべ、実際に貧相な体つきのひとだった。
彼は明治初年、旧藩の貢進生にえらばれて大学南校に学び、明治八年(一八七五)から三か年、ハーバード大学で法律を学び、あと二年間はニューヨークの法律事務所で実務を研修した。
 自分は・・・・体は日本人の中でもこんなに小さかったにもかかわらず、学校の教師は自分を愛してくれた。そして又学生等は自分を侮辱しなかったばかりでなく、かえって非常に尊敬していた。途中でむしろ帽子まで脱いで敬意を表していたくらいであった。
 米国人の魂は真正の武士の魂である。弱い者を愛してやる。彼等の魂は名誉と義侠の念に満ちている。
 これは、小村の談話である。武士だった小村がアメリカ人こそ武士だというのである。きき手は、小村の弟子ともいうべき書生の桝本卯平(ますもとうへい)(工学士・造船技師)であった。右の談話は桝本が小村の死後書いた「自然の人 小村寿太郎」(大正三年刊・洛陽社)にある。

アメリカ素描
司馬 遼太郎(著)
新潮社; 改版 (1989/4/25)
P118

アメリカ素描 (新潮文庫)

アメリカ素描 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1989/04/25
  • メディア: 文庫

DSC_4173 (Small).JPG関門海峡

P227
 小村が、かつて政府の留学生としてハーバード大学で法律を学んだころは、アメリカはおだやかな巨人という感じだった。
一八七四年(明治七)から六年間の滞米で、そのころのアメリカは海外領土を持つ(つまり帝国主義)という気分がなく、従って植民地維持のために必要な海軍も、世界で第十一位という弱小なものにすぎなかった。
 が、二十余年のあいだにアメリカは変わった。小村の航海中に米西戦争が進行しており、ハワイを併合しただけでなく、フィリピンをスペインから奪って領有したのである。
アメリカは、ヨーロッパの列強ほどひどくはなくても、似たようなことをする国になった。

アメリカ素描 (新潮文庫)

アメリカ素描 (新潮文庫)

  • 作者: 遼太郎, 司馬
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1989/04/25
  • メディア: 文庫


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