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古仏の微笑 [見仏]

P107
 古仏の微笑は云うまでもなく慈悲心をあらわしたものにちがいないが、これほど世に至難なものはあるまい。微妙な危機の上に花ひらいたもので、私はいつもはらはらしながら眺めざるをえない。
菩薩は一切衆生をあわれみ救わねばならぬ。だがこの自意識が実に危険なのだ。もし慈悲と救いをあからさまに意識し、おまえ達をあわれみ導いてやるぞと云った思いが微塵でもあったならばどうか。
表情は忽(たちま)ち誇示的になるか、さもなくば媚態(びたい)と化すであろう。大陸や南方の仏像には時々この種の表情がみうけられる。

P111
 芸術は常に恐るべき危うさに生きるものだ。この恐怖を自覚したとき、芸術の使徒は宗教の使徒ともならざるをえないだろう。
(住人注;中宮寺菩薩半跏像(寺伝如意輪観音))思惟像の微笑をみていると、そのことがはっきり感じらるる。仏師は実に危いところにいきている。一手のわずかな狂いが、微笑を忽ち醜怪の極へ転落さしてしまうだろう。その一手はいのちがけだ。空前にして絶後なのだ。仏師はおそらく満足というものを知らなかったであろう。
一軀の像を刻むことは、一つの悔恨を残すことだったかもしれぬ。多くの古仏の背後には、どれほど恨みが宿っているか。微笑のために死んだ仏師を私は思わないわけにはゆかない。

P114
 微笑を失った菩薩というものは本質的には存在しない。飛鳥仏にみらるる微笑は、白鳳天平(はくほうてんぴょう)となるにしたがって消え去っていくが、これは何故だろうか。 微笑は更に内面化し、菩薩の姿態そのものに弥漫(びまん)して行ったのだと私は思う。
白鳳天平の仏像が次第に人体に近づき、柔軟性を帯びてきたのは、ただ彫刻家意識の発達に由るのみではあるまい。
微笑を肉体化し、菩薩の口辺のみならず全姿に宿すまでに信仰は消化されたのだとみなすべきではなかろうか。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)

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DSC_7391M (Small).JPG中宮寺

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