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信仰か鑑賞か [見仏]

フェノロサがこの観音(住人注;夢殿の久世観音)の白布を解くとき寺僧達が逃げ去ったというが、逃げ去った寺僧の方にも道理はある。
フェノロサがいかに立派な美術史家であり、久世観音に驚嘆の声を放ったにしても、この秘仏の真の無気味さについては、一介の寺僧ほどにも通じていたとはいえまい。
すべての秘仏にふれるには、あつかましさが必要かもしれない。あつかましさの故に、今は我々も拝観料を払って見物しうるのかもしれぬ。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P35

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P50
比較しつつ信仰する人間の信仰を信用できるだろうか。比較しつつ愛する人間の愛情を信じうるだろうか。
大和に散在する古寺を、僕らはいつのまにか博物館の一種として感じるようになったのである。
僕らはもはや昔の人が感じるように古寺を感じてはいない。 僕らの感じているのは、実は寺でなくて博物館ではないか。この無意識の変貌(へんぼう)を僕は最も惧(おそ)れる。
信仰にとっては致命的だ。云わば神と仏の博物館を巡るといったような状態に知らず知らずの間に堕(お)ちて行くのではなかろうか。僕が戦争中に太子伝をかこうとした気持の中には、この状態に対
する意識的な戦いがあった。

P61
その後、屢々大和を訪れるようになってから、次第に自覚してきたことであるが、多くの古寺、諸々の仏像を同じような態度で見て廻り観察することは、つまり自分の心にそぐわぬのだ。一度の旅には、ただ一つのみ仏を。そこへ祈念のために一直線にまいるという気持、私はいつのまにかそれを正しいとするようになった。
尤もついでに(ついでにと申しては他のみ仏に失礼であるが)多くをみるけれど、その旅に念ずるものは唯1つ。現在の私はそうである。

P71
 はじめて古寺を巡ろうとしていた頃の自分には、かなり明らかな目的があった。即ち日本的教養を身につけたいという願いがあった。 
~中略~

仏像は何よりもまず美術品であった。そして必ず希臘(ぎりしゃ)彫刻と対比され、対比することによって己の教養の量的増加をもくろんでいたのである。
~中略~
 だがはじめてみた諸々の(もろもろ)の古仏は、「教養」を欲する乞食に見向きもしなかったということ―これは私のつねに感謝して想起するところである。 美術品を鑑賞すべく出かけた私にとって、仏像は一挙にして唯仏であった。半眼にひらいた眼差しと深い微笑と、悲心の挙措は、一切を放下せよというただ一事のみを語っていたにすぎなかったのである。
教養の蓄積というさもしい性根を、一挙にして打ち砕くような勁(つよ)さをもって佇立(ちょりつ)していた。

P73
 この秋法隆寺へ行って新たに完成した大宝蔵殿を拝観した。金堂の壁画は模写中であり、修理もはじまるとみえて、堂内の諸仏は多く宝蔵殿に移され、その他の仏像とともに漸(ようや)く整備陳列された頃だった。
しかしこの宝蔵殿ほど現代人の古仏に対する心理状態をあらわに示しているものはないように思われる。そこにまず看守されたことは、仏と美術品との妥協であった。
美術品として鑑賞出来るように、つまり博物館式に陳列してあるが、同時に仏としての尊厳も無視しえないとみえて、まさに仏として拝することの出来るようにも並べられてある。

P74
 百済観音のみならず、ガラスのケースの中にも多くの古仏は並べられ、造花が添えられ、崇められているようにみえるが、また見世物式であることも否定できない。寺僧は必ずやこれらのみ仏の前に礼拝するだろう。心から保存を念じているかもしれぬ。
礼拝しつつ、だが一方では、古仏を美術品として鑑賞に来る「教養ある人々」の勿体ぶった顔にながし眼を使っているのだろう。これは私の邪推だろうか。「古典の復活」時代であるから、誰しも法隆寺を口にする。法隆寺は当代の人気を得ている。法隆寺の方では、その声に応じるがごとくすべてがアトラクション的になる。
おそらく無意識の裡に異邦人の、乃至(ないし)は異邦人的な眼をもった教養ある日本人の好奇心と鑑賞を予定しているのだ。法隆寺は寺でるかショウであるか、私は疑わざるをえなかった。

P97
西洋は、その思索に全身を焼く人間をそのままに追求するのに対し、わが古人は、むしろこれを内に抑えて、人間を超えた秘愍(ひびん)の微笑をもって有情の救いの手をさしのべる仏を念じたのである。この像(住人注;中宮寺の思惟像)を拝したであろう飛鳥人が必ずしも幸福でなかったことを思うとき、私は東洋の深淵(しんえん)を感嘆せずにおれない。
 天平末期から鎌倉にかけては、ロダンのごとき名手がわが仏師の中に幾人も輩出したことは明らかである。三月堂や戒壇院の四天王、あるいは興福寺の八部衆、傑僧の諸像、また仏弟子の像や鎌倉の諸像をみるとき、私はこの方が比較に都合よいように思う。 とくに彫刻という概念が確立したのは鎌倉である。運慶の世親、無著像に至ってはじめてルネッサンス以来の巨匠が対比されると言っていいのではあるまいか。
しかし、仏陀(ぶっだ)と菩薩像の深さは、飛鳥白鳳(はくほう)天平前期において世界に冠絶すると考えないわけにはゆかないのである。彫刻という概念では律しられないのである。

P203
ルネサンス以来の西洋美術に関する知識が流入してから、仏は人身にひきさげられ、美術館のガラス箱に陳列され、「教養ある人士」の虚栄となった。
彼らは古仏を目して彫刻とよび、微に入り細を穿(うが)って様式を論じ、比較研究し、無遠慮にこれを写して公衆の面前にさらす。伝統からいえば奇怪事である。  私の大和古寺巡礼は、一面からいえばかかる状態からの脱却でもあった。

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