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仏像における彫刻性あるいは写実性とは [見仏]

 美的関心あるいは様式技術論のみをもって仏像に対することの不可は、誰しも一応認むるのであるが、悲願を体得するという困難のゆえに、つい我々は美術品としてのみこれをあげつらい易(やす)い。そこに一見学問的にしてしかも無意味な比較研究が起る。
白鳳天平(はくほうてんぴょう)の諸仏に比して、飛鳥仏の稚拙と固定性は美術家のすべてが論ずるところである。~中略~
 しかし私は仏像における彫刻性あるいは写実性とは何か―今日美術家の説くところに対して多大の疑問をもつ。白鳳天平となれば、仏像は完全に立体性をもち、つまりは人体に近くなる。人体に近いほど我々に親しさをもたらすのも事実である。飛鳥の釈迦像よりも天平の聖観音の方が我々を喜ばしてくれる。
更に三月堂や戒壇院の四天王像となれば益々面白い。
この面白さとは、結局彫刻としての面白さであり、そこに写実性乃至(ないし)人間性に立脚する古美術論が成立つ。
これに接したときの我々の情感も、体軀の柔軟なくねりに応じて自由になるように思われる。これは仏像の進歩というものなのだろうか。信仰の発展というものなのだろうか。

 だが私は最も始源の意味に―即ち第一義の道に還(かえ)りたい。仏師が仏を彫る所以(ゆえん)のものは、さきに述べた人間の悲願に発するのである。まずその根本へ還りたい。
写実といったときの「実」とは即ち「仏」であって「像」ではない。仏像とは彫刻ではなく、一挙にただ仏である。これは大事な根本でなかろうか。
然(しか)るに現在用いられている写実という言葉は、人間性と聯関(れんかん)した、言わば人間の「実」を写すという意味が非常につよい。
人間の「実」を求めて、遂にそれを超えた仏の「実」に達したところを見るならば私も一応納得するけれど、古人が「仏」の「実」として写したものを、人体にひきおろして鑑賞する態度は果たして正しいだろうか。
「私」の美的恣意(しい)に基く鑑賞によって仏像を解しうるだろうか。信仰の上から云って冒瀆(ぼうとく)であるのみならず、あらゆる点から云ってそれは虚偽ではなかろうか。造仏本来の意味に反する。現代の古美術論の多くはこの虚偽の上に成り立っているように思われてならない。

大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
P83


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