知性は信仰の妨げになる [宗教]
P50
唯一者への全き帰依を阻むものとして、近代の知性を挙げてもよい。信仰という分別を超えた問題に面すると、僕の知性は猛烈な抵抗を開始するのだ。
すべてを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界を心得ている筈だ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明しつくそうという欲求にかられるのである。
現代人にとっては、こうした知的動きは賞賛(しょうさん)さるべきものらしいが、僕にとっては「罪」なのだ。比較癖とともにいつも自分を苦しめるのである。
~中略~
知性は博物館の案内人としては実に適任であろう。だが信仰の導者としては「無智(むち)」が必要だ。
「無智にぞありたき。」と述懐した鎌倉時代の念仏宗のお坊さんの苦しみがわかるような気がする。
人は聡明(そうめい)に、幾多の道を分別して進むことが出来る。しかし愚に、唯一筋の道に殉ずることは出来難い。冷徹な批判家たりえても、愚直な殉教者たりえぬ。
そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではないだろうか。宗教や芸術や教育について、様々に饒舌(じょうぜつ)する自分の姿に嫌悪(けんお)を感ぜざるをえない。
「愚」でないことが苦痛だ。それともこんなことを言っている僕が、愚にみえるだろうか。
P76
崇高なものに絶えずふれておれば、おのずから人の心も崇高になるであろう。
古典を学ぶことによって、我々の心もひらかれるであろう。しかし、そのひらかれた筈(はず)の心が、自らを高しと感じ、古典の権威を自己の権威と錯覚するようになったらどうか。
遺憾ながらこの錯覚から免れている人は尠(すくな)い。古典や古仏を語る人間の口調をみよ。傲慢(ごうまん)であるか、感傷的であるか、勿体ぶっているか、わけもなく甘いか。
大和古寺風物誌
亀井 勝一郎 (著)
新潮社; 改版 (1953/4/7)
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