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重源 [宗教]

P232  おどま 勧進(かんじん)勧進
 という言葉が「五木の子守唄」に入っているが、九州その他の地方では乞食のことを勧進という。 旅をする高野聖が、庶民から一握りの米をもらい、富家からは、寺院の修復その他を名目にして金をもらい、それが高野山の財政の一半をささえていたとはいえ、結局は乞食と同義語になったのは、あわれというほかない。
後世の堕落した高野聖にも問題があるかもしれないが、ホンモノの乞食のほうが高野聖と称して米塩を稼ぐということが普通おこなわれていたのであろう。
 高野聖は、勧進してまわる。
 そのうちもっとも巨大な存在は、鎌倉期の高野聖・俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)であろう。
 源平争乱で、平重衡(しげひら)が奈良の東大寺の大仏殿に火を放ち、殿舎も大仏をももろともに焼いてしまったあと、高野山にいた重源が奈良にやってきてこの惨状を見、全国に勧進して再建再鋳しようとした。
 かれは法然流ではないが、本来念仏の徒であまりに念仏に凝ったために自分自身が阿弥陀仏だとおもうようになった。法然流ならそれは出て来ないが、重源は若いころ真言密教の行(ぎょう)にうちこんだから、密教の即身成仏の思想と論理が身についてしまっており、その論理からいえば、べつにおかしいことではない。
 重源の生涯は、ひたすらな勧進だったといっていい。たとえば橋をかける勧進をしてまわり、当時、日本でもっとも長い橋のうちである瀬田の唐橋や大阪の渡辺橋の修築もやった。湯屋(大衆浴場)を各地に建ててまわる勧進をしたこともある。最後の勧進が大仏勧進で、六十歳をすぎてからで、八十六歳でなくなるまで大仏の再興のために駆けまわった。
 重源が、どんな人間だったかは、知る手がかりがすくない。鎌倉期の作の木造が東大寺にある。 頭蓋骨がくるみにように厚くて頑丈そうで、目鼻立ちも大ぶりであり、これなら勧進聖(かんじんひじり)の大親方が、いかにもつとまりそうである。
「自分は三度も宗の国へ渡った」
などと自称していたそうだが、むろんホラであろう。しかし多少はホラを吹いて自己を大きく演出できるようでなければ、大仏再興という勧進のキャンペーンなどはおこせなかったかもしれない。
この俊乗房重源が高野山において住んでいた別所が、いまからゆく真別処谷なのである。

P236
 五来(ごらい)重氏の研究では、平安末期から鎌倉初期にかけて真別処(新別所)に住んでいた聖たちは道心の堅固さで知られていたという。
 この谷の聖たちの親方である俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は、とくに道心堅固な聖をえらんではこの谷に住まわせた。聖の集団とおうのは売僧(まいす)くさい猥雑なものだが、重源はそれをきらい、人柄から厳選してかかったというのは、高野聖の歴史の中でもめずらしいといわなばならない。
 当時、聖の出身はさまざまであったであろう。貧窮の中で育ってもうまれつき才覚のある者は、  ―聖にでもなって面白おかしく世をすごすか。
 ということになったかもしれず、そういう連中が聖渡世をすると、肉をくらい女とも戯れ、米銭をむさぼって、なかなか強(したた)かなものであったにちがいない。
 それに対し、重源が選んだ真別処谷の聖たちは、源平の争乱などで敗者の側に立った者が多かったといわれる。米銭が自然に身のまわりになる階層にうまれ、しかも没落し、そのはかなさを知ってみずから求めて無一文の境涯に入っただけに、過去の豊かさにももどりたいという気がすくない。
 聖はふつう妻帯して在俗生活をしているものだが、重源にひきいられたこの真別処の聖たちは女色も遠ざけ、本来の聖の渡世である遊行(ゆぎょう)や勧進という米銭を得る暮らし方をとらず、この山林にこもって外界とまじわりを断ち、ひたすらに不断念仏に身をゆだねていたという。
食ってゆくということについては、重源が面倒をみた。重源がたえず外界に出てはその広い顔を生かし、寄付などを集めてまわった。重源は世話好きである一面、勧進にかけてはけたはずれの名人であった。
晩年に、草莽(そうもう)の聖でありながら大仏再興という歴史的な大勧進をやってのけたのも、右のような勧進の積み重ねが若いころからあったせいであろう。
 重源の名は、かれと同時代の著作物である「愚管抄」にも出ている。「愚管抄」はいうまでもなく、鎌倉期の僧慈円が著した歴史書である。
慈円は、野の聖の重源とはちがい、僧官としては最高の天台座主の地位につき、その氏は藤原氏で、月輪関白(つきのわかんぱく)の異称である兼実の実弟である。慈円からみれば重源などはいかがわしいだけの存在で、好意がもてようはずがない。
~中略~
 支配階級の慈円には理解しがたいことだろうが、重源にすれば聖だけに宗派の思想に拘束されず、自由にものを考えることができる。たとえばおなじ念仏者でも法然は叡山から出ただけに顕教的に念仏をとらえ、阿弥陀如来を他者とし、その本願を絶対他力とし、その他力(阿弥陀如来の本願)に身をゆだねるという思想をもっている。
重源は高野山で空海の密教に影響されただけに、阿弥陀如来を他者と考えず、法を修めれば促進にして自分が阿弥陀如来という普遍的存在になりうると信じている。
遠い世の空海がきけば驚くにちがいないが、空海の即身成仏の理論を阿弥陀信仰にあてはめたのである。

街道をゆく〈9〉信州佐久平みち
司馬 遼太郎 (著)
朝日新聞社 (1979/02)

DSC_0284 (Small).JPG浄土寺 兵庫県小野市

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