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禽獣と人の違い [教育]

子を生みて子を養うは人類のみに非ず、禽獣皆然り。
ただ人の父母の禽獣に異なるところは、子に衣食を与うるの外に、これを教育して人間交際の道を知らしむるの一事に在るのみ。

福沢 諭吉 (著)
学問のすすめ
岩波書店; 改版版 (1978/01)
P94 学問のすゝめ 八編

学問のすゝめ (岩波文庫)

学問のすゝめ (岩波文庫)

  • 作者: 福沢 諭吉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1978/01/17
  • メディア: 文庫


-f1750.jpg高野山奥の院 一の橋

P69
 よしや生物学者から言ったらば人類もまた一動物であって、脚走羽飛するところのものと多く異なるなきが実際であるにせよ、少なくとも動物中の最高級の者に属する以上は、他の動物等の追随企及し能わざるような高尚都雅なる情状、即ち情を矯めて義に近づき、己を克して礼に復(かえ)るような崇美なところがなければならぬのである。
然らざれば人と他の動物とは何の区別するところもなくなるのである。
己を抑えて人に譲る、是の如きは他の動物に殆どなきところで、人にのみあり得るところである。
物足らざるも心に足りて、慾に充たざるも情に充ちて甘んずる、是の如きは他の動物になくして人にのみあり得るところである。
およそ是の如きの情状を做し得てこそ、人もいささか他の動物の上に立ち得るのであれ、然(さ)なくば那処に人の動物たらざるところを見んやである。
分福の説(明治四十三年十二月)

P175
純粋に自然に順えば人はただの野猿である、山羊である、人の尊き所以は何処にもない。
高野の大師が羝羊心(ていようしん) といわれたのは即ちその心である。
羝羊は淫欲食欲のほかに何が多くあろうぞやだ。然るに人は決して羝羊となって満足するものでない。
淫欲にも克ち食欲にも克ち、人の禽獣と同じき所以のものを超越して、そして人の禽獣と異なる所以のものを発揮しようと努めて居るのが、人類の血を以て描いた五、六千年の歴史である。
~中略~
一切動物に超越し、前代文明に超越し、かつ自己に超越し行くことを欲して居るものである。そして人々のその希望が幾分かずつ容れられるのである。
即ち造化 が自己の意志に参することを人間に限りて許して居るのである。で、人間は小造化となり得るのである。
静光動光(明治四十一年三月)

努力論
幸田 露伴 (著)
岩波書店; 改版 (2001/7/16)

努力論 (岩波文庫)

努力論 (岩波文庫)

  • 作者: 幸田 露伴
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2001/07/16
  • メディア: 文庫



時間ということにおばあさんは進歩的だった。―人は誰でも好きなことをしてのんびりしている時をもたなくてはいけない。
家事というものは行く河の流れと同じで、絶え間もなく続き続き、渋滞すればたちまち膨張氾濫するから、何事においても先ずこれを一埒さっとかたずける。
果て知らずという性質をもったのが家事だから、われからくぎって規矩にはめなくてはならぬ。

~中略~
よく、子供が多くてということをいうが、あれはよっぽどおかしな話で、子供は一家運営の基礎ではない。本末顛倒している。
子供なんぞは何人あってもその拠って立つところの家の、そのまた動脈たる家事に協力させるべきで、もともと能力未発達のものが子供なのだから、それに大人である親達が規矩を乱されてうだくだしているのは正しき愛情ではない。

~中略~
子供は望んで得られるものではないけれども、向こう向いている間にひょっこりと飛び出して来たなどということはないものである。
今の人達は子より寧ろ親の方が何かにつけ、あまったれ根性を出している、というのが家事観である。
露伴先生だって子供だったのだから、おばあさんの規矩のなかで協力させられ、芋買い米とぎはいっささかも不思議でないらしい。

幸田 文 (著), 青木 玉 (編集)
幸田文しつけ帖
平凡社 (2009/2/5)
P27

幸田文しつけ帖

幸田文しつけ帖

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2009/02/05
  • メディア: 単行本



 P32
 公共の場とは、人間が文化というものをかなりの程度に高度化させた末に、生活をより社会的にするため(例えば生産物や情報の流通を促すために)、いわゆる理性を用いて作りだした人工物なのだろう。だから発達上の社会化も、私たちは意識してそれを促進する必要が求められる。
それを誤解して、サルのように動物的な愛情のままに育児をすればまっとうに人間が発達するととらえられたために、二十一世紀になって育ってきた子どもたちは、先祖返りしてサル化しつつあるのかもしれない。

P58
 子を持った母親を対象に話をしていると、時として「私は思いっきり子どもを可愛がることにしている。
動物だってそうじゃないですか。それで何が悪いのですか」と尋ねられることが少なくない。。
なるほど、この主張は表面的には説得力を持っているように聞こえるかもしれない。けれども人間は、動物的な水準の養育をうけるだけでは、サルの一員としての「ヒト」にしか育たない。
そうして実際、今やかなりサルに近い発達しか遂げなくなってきている。それは昨今の社会風俗に端的に現れてきている。

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊
正高 信男 (著)
中央公論新社 (2003/09)

 

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

ケータイを持ったサル―「人間らしさ」の崩壊 (中公新書)

  • 作者: 正高 信男
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2003/09/01
  • メディア: 新書



P192
ヨーロッパの子供はおとなしい。もちろん子ども同士でケンカもするしワンパクもあるが、大人と一緒だと、まして他人と一緒だと静かに行儀よくしている。
来客のある食卓での子どもは、両親の許しがなくては話をしてはいけないとされている。ふだんでも子どもがしゃべりすぎると親がストップをかける。なんでも子ども中心にする日本とは大違いだ。
 またヨーロッパの人は、よく子どものお尻をぶつ。悪いことは体でわからせる、ということだ。
スウェーデンの夫の従兄弟の家でも、末っ子のミイケをよくオシオキしていた。奥さんは「子どもは動物だから、小さいうちからよくしつけなければならないのよ」と言っていたっけ。
 お隣のルイちゃんが、たいしたことでもなかったが私に対して「ごめんなさい」が言えないことがあった。 ママのところへ泣きに行くが、奥さんはその手をふりほどいて私のほうへ顔を向かせ、きつい調子で言った。
「ルイ、レイコおばちゃんに「ごめんなさい」を言いなさい!」
ルイちゃんは泣き出した。
「そろそろ自我が出てきたのね」と私は奥さんに言う。
「そうなの。最近泣けばいいと思っているのよ」
その泣き方が嘘泣きっぽいのはすぐわかる。そのうち悲しいから泣いているのか泣いているからかなしいのか、彼の泣き声エスカレートしていった。しかし、目の前に立って見下ろしているふたりの大人は何も言ってくれない。
 しばらくすると1歳半のルイちゃんは泣くのをあきらめ、涙がいっぱいたまった目で私に近寄って、「ごめんなさい」と言ってキスした。
私は「ルイはいい子ね」と抱きしめる。すぐに奥さんは抱き上げて「ル・ル(ルイの愛称)、賢くなったね」と、何度もその背中をやさしくたたいてキスした。

P194
 ヨーロッパでは「今のしつけが大切」という、大人のママの立場に立ってあげなければいけない。東京在住のイギリス人の友人の言う、「子どもは社会が育てるもの」なのだ。

P195
 大人だけが人間で、子どもや犬猫は”大人の世界”には入れないというルールが、ヨーロッパにはあるのだ。
食卓でも子どもが良心の許可を得ないで話せないのも一例だが、これはよいことだと思う。なぜなら、小さいころから、世界が自分を中心に回っていると思わないで育つから。

P196
 ところで、英語で赤ちゃんのことをItで呼ぶのをご存じだろうか。HeでもSheでもない。
いくつになったらheやSheで呼ばれるのかは定かではないけれど、Itと呼ばれる赤ちゃんは、つまり犬と同類、しつけられて初めて人間になる、というわけなのだろう。

一度も植民地になったことがない日本
デュラン れい子 (著)
講談社 (2007/7/20)

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人間と動物を区別するギリギリ結着の問題は何かと言えば、「敬」と「恥」である。
この二つは人間に根本的にたいせつなものであって、これを失うと、人間は明らかに動物並みになる。
人間という獣になる。そうなると、最も悪質の獣になるわけです。外の動物が持っておらぬ知識だの才能だのといういろいろなものを持つから、これはどうも難物になる。

安岡正篤
   運命を開く―人間学講話
  プレジデント社 (1986/11)
   P82

 

新装版 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

新装版 運命を開く (安岡正篤人間学講話)

  • 作者: 安岡正篤
  • 出版社/メーカー: プレジデント社
  • 発売日: 2015/03/31
  • メディア: 単行本



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