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謝意は受け取れ [対人関係]

 感謝を本気で拒絶すると、相手は侮辱されたと思う。
「曙光」

超訳 ニーチェの言葉
白取 春彦 (翻訳)
ディスカヴァー・トゥエンティワン (2010/1/12)
146

超訳ニーチェの言葉

超訳ニーチェの言葉

  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/18
  • メディア: Kindle版

 

DSC_6210 (Small).JPG臼杵石仏山王石仏

P210
実のところ、これは今に至るまで私の痛恨事の一つである。どうして私はあの時、差し出された缶コーヒーを断ったのだろうか。
 本当に、どうして断ったのだろう。私はもともとコーヒーが好きではない。また、その時は後で駅の喫茶店で何か飲もうと、約束はしていた。
しかし、そんなことが理由になるのか。あの時、身動きとれず、できることがほとんどない状況で差し出された、患者さんの好意と感謝のしるしを断るなんて、今となっては人非人の所業と思える。
いや、今となってから思うのではない、あの時患者さんの病室を辞した時以来、ずっと私は後悔し続けている。
~中略~
 以降私は、次のことを自分に課しており、また私の後輩たちに言っている。  回診の時に、時々患者さん(中高年の女性が多い)から、「先生もどうですか」などとお菓子や果物を勧められることがある。その時には決して断ってはならず、礼を言ってもらった上で、その場で食べなければならない。ここが重要である。~中略~
大袈裟に言えば、これは私の会得した、臨床医の極意の一つだと、本気で思っている。私はこれを心理学の用語で説明することはできないが、しかし、これが「極意」であることは欠片も疑いをもっていない。
~中略~
 柄にもなく慌てて付け加えるが、別に患者は金品を差し出せと言っているのではない。
差し出すと何か良いことがあるかというと、普通は何もない。医者の方は、誰から何をもらったか、ほとんど覚えていないからである。
だから何かを贈ったからといって扱いがよくなることを期待はできないし、医者との関係が特別良くなることもないだろうと思う。
いつか、私の病院に、「金品を贈ったにもかかわらず、それを受け取られたにもかかわらず、扱いが良くならなかった」という患者からの苦情があったそうだが、そういう時、医者連中は「何と卑しい人だ」と、むしろ患者の側を軽蔑する。
したがって、そうした下心のある場合はへたに贈り物などしない方がよいかも知れない。
 最近はどこの病院に行っても、「もらいものはお断り」の札が貼ってあるし、実際全部断るところもあるようだが、くれるというんものは受け取るべきであろう。
この「お断り」は看護婦の方が徹底しているようで、私も子供が生まれた時に、退院時に病棟へ菓子折りを差し出したが、頑として受け取ってもらえず突っ返された。非常に不愉快であった。
 もっと極端な例では、私の病院で、患者さんが自分の畑でとれたという葡萄を病棟宛に送ってくれたが、看護部が返せと命令し、病棟が「丁重な礼状」とともに送り返したそうだ。患者さんはそれならと担当医宛に送りなおしたが、それが届いた時には葡萄は腐ってしまっていたという。
こういうことはまことに失礼であるし、不人情この上ない。~中略~
 人情は、「倫理」や規則よりも上位である。
 もらう側にも礼儀は必要である。恐縮して、また喜んで、もらわねばならない。

P216
 正直に白状するが、誰からいくらもらったか覚えてなくても、総体として何がしかの「お礼」があると、医者は嬉しいしモチベーションが上がる。それを卑しいというのであれば、もちろん卑しい。しかし開き直るようだが、何かを頼むとき手土産の一つも下げるのは世の中の常識の一つではないのか?
~中略~ 汚職は国を滅ぼさないが正義は滅ぼすと喝破したのは山本夏彦翁であった。ちなみに、患者になったときにいろんな裏工作をしてどうか便宜を図ってもらおうとするのが一番目に余るのは新聞記者をはじめとするマスコミ関係の人間だ、というのは医者の間でよく言われることの一つである。

P217
 私がまだ二十代のころ、そのとき勤務していた病院に、地元のヤクザの親分が入院してきた。付き添っている子分ともども、物腰は非常に丁寧であった。入院二日目か三日目に、何か封筒に入れたものを渡された。どうしたわけか病院の封筒であったので、何かの書類かと思い受け取ってしまった。
~中略~
ナースステーションで開けたら大枚のお金であり、たまたまそこにいた部長に相談したところ、「バカ野郎!すぐ返して来い!」と怒鳴られ、病室に戻りなんとか押しかえしてきたが、すぐに子分二人がやってきて「先生、社長がお呼びだからおいでください」。
 大男にはさまれて震えながら病質に行ったところ、親分からあくまでも丁寧に紳士的に受け取ってくれと頼まれた。とにかく上がうるさいので、という情けない言訳の一転張りで逃げ帰ってしまうのがやっとだった。
 別の日、子分の一人が婦長に「この病棟の看護婦さんは全部で何人か」と何気なく聞いたので、婦長も何人です、とすぐに答えてしまった。次の日、その人数分の高級菓子の詰め合わせセットを子分が重たそうに運んで、「皆さんへ」。婦長も真っ青になってしどろもどろで親分の病室に返しに行く、さすがに親分憮然として「一体何だったら受け取ってもらえるんですか」。
婦長も気の毒になったのか、「お花くらいだったら」とうっかり答えてしまったところ、その翌日はものすごく立派な胡蝶蘭が何鉢も届いた。これはそれでもなーすステーションにしばらく飾ってあった。
 もちろん親分に悪気があったわけではなく、またこれで医療者の歓心を買おうなどというようなケチな根性ではなかったのだと思う。そもそも当然のごとく特別室に入って、初めから違う扱いを受けていたわけであるし。
私は今、あのときの部長の年齢と同じくらいになっているが、今だったら、まあ大枚の現金は別として、あのお菓子は病棟を代表してお礼を述べた上で、有り難く頂戴してもよかったかなという気もする。
 こういうのではなく、いわゆる心のこもった贈り物というのももちろんある。一番嬉しかったのは、以前、高校生の男の子からもらったものである。
~中略~
 何はともあれ良くなって、親御さんにも感謝された。もらったのは、広島かどこかへの修学旅行のお土産のしゃもじである。もちろんつまらないものには違いない。ただ、私の記憶と理解が正しければ、修学旅行で子供が使えるお小遣いは決まっているはずである。
その子は、大したことない予算の中から私のために幾許(いくばく)かを使ってくれたのだから、これを喜ばずしてなんとしよう。
~中略~
 さてつい先日のことである。私は外来の診察室に六十代後半男性の患者さんを呼び入れた。肺癌で化学療法の後、頬部に放射線の照射を行ったが、その後急激に腰椎の転移が出現また増悪し、強い腰痛のため車椅子でこられた。 ~中略~ 診察室に車椅子で入ってこられたとき、その患者さんは手にホットの缶コーヒーをもっていた。わたしを見るなり「先生、コーヒー飲むかい?」と差し出された。
冬場であったが診察室は暖房が効いており、私はのどが渇くのでペットボトルのミネラルウォータを脇において飲みながら外来診察をしていたが、すぐに(と言いたいが、もしかしたら一瞬の間合いはあったかもしれない)「あ、ありがとうございます」と受け取って缶を開け、飲みながらその患者さんの診察をした。
~中略~
 ご長男は診察室から出られる前に、私に「コーヒー飲んでいただいて有難うございました」とにっこり笑って礼を言われた。
 私はこの時、うれしそうに、また美味しそうに、コーヒーを飲めていたのだろうか。

偽善の医療
里見 清一 (著)
新潮社 (2009/03)

 

偽善の医療 (新潮新書)

偽善の医療 (新潮新書)

  • 作者: 里見 清一
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/03/01
  • メディア: 新書

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