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欲望 [哲学]

 欲望というのは人間を走らせる駆動力でもあります。それが枯れるというのは、ガス欠した車のような状態になることであり、そのことこそ「苦しい」と思う人も少なからずいるはずです。
 欲望にまみれて突っ走っている人間には、怖いものはありません。突っ走れなくなったときに初めて、恐怖を感じ始めます。

マイ仏教
みうらじゅん (著)
新潮社 (2011/5/14)
P160

DSC_6188 (Small).JPG臼杵石仏ホキ石仏

P163
そもそも文化と呼ばれるものには、欲望が必要です。
「カッコいい」ものを作りたい、という欲望のないものが、後世まで残るはずがありません。
「みんなバラバラで、それがいい」という価値相対化の時代になると、どれが「カッコいい」一等賞なのか、判断しづらくなります。つまり「みんな平等」というお釈迦さんの言うことを全面的に認めると、文化というのは生まれにくくなるのではないでしょうか。
~中略~

 文化は欲望からしか生まれない―。このことについて、お釈迦さんはどのようにお考えになるのでしょうか。
 そもそも、「文化を残す」という考え方自体が執着そのもので、諸行無常に反するのかもしれませんが、数百年の時を経て残った仏像やお寺に夢中になって仏教に興味を持った身としては、少なくともそこは否定できないと思うのです。


P46
 この鴨長明のように「隠棲する」「枯れる」、というのは日本人の一つの理想の姿ではある。
歌人の西行にしても、「徒然草」で知られる兼好法師も、上皇に仕える武士から出家している。 出家まではできなくても、「欲」を持たず、恬淡(てんたん)と生きることに心を惹かれるという人も多いだろう。
 しかし「欲」とは生きていくうえでのガソリン・エネルギー源である。
 精神分析学の開祖、フロイトは「性的衝動を発現させるエネルギー」を リビドーと呼んだ。
彼の弟子で、後に彼と決別したユングはリビドーをもっと広く、「すべての本能のエネルギーの本体」と捉えた。

 P48
 年を取っても何でも楽しめる人でいられるか、何をしてもつまらない人になってしまうかは、自分の「欲」とのつき合い方にかかっているのだ。
 鴨長明や西行、兼好法師らは、なるほど隠棲した人たちかもしれない。だが、彼らは自分で日記や随筆を書いたり、和歌を詠むなど創作活動に打ち込んでいたのだ。
生きかたは「枯れている」ように見えても、何かを表現したいという「欲」までは枯れていなかったのだ。 彼らの感情は老化しているどころか、老いてますますいきいきとしていた。

P31
 作家の赤瀬川源平さんは、加齢による衰えを肯定的に捉える言葉として「老人力」と名付けたが、欲がなくなるもの確かに「老人力」だろう。
老成ゆえに信用されることもある。しかし、一方では、欲がなくなったがゆえに枯れてゆくという面は否めない。
 何かにつけて「めんどくさい」「もうこんなことしなくてもいいだろう」と感じて、そんな言葉が口をついて出るようになってくると、本当に老け込んだ年寄りになってしまう。
「欲」を持ち続けるのも、感情の老化と闘っていくために大事なことなのだ。

人は「感情」から老化する―前頭葉の若さを保つ習慣術
和田 秀樹 (著)
祥伝社 (2006/10)

文明社会では、人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに、全生涯をつうじてわずか数人の友情をかちえるのがやっとなのである。
他のたいていの動物はどれも、ひとたび成熟すると、完全に独立してしまい、他の生き物の助けを必要としなくなる。
ところが人間は、仲間の助けをほとんどいつも必要としている。
だが、その助けを仲間の博愛心のみ期待してみても無駄である。むしろそれよりも、もしかれが、自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができ、そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが、仲間自身の利益になるのだということを、仲間に示すことができるなら、そのほうがずっと目的を達しやすい。
他人にある種の取引を申し出るのはだれでも、右のように提案するのである。
私の欲しいものを下さい、そうすればあなたの望むこれをあげましょう、というのが、すべてのこういう申し出の意味なのであり、こういうふうにしてわれわれは、自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取りあうのである。
われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるものではなくて、かれら自身の利害にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフ・ラブ)にたいしてであり、われわれが彼らに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである(1)。
同胞市民の博愛心に主としてたよろうとするのは、乞食をおいてほかにはいない。乞食ですら、それにすっかりたよることはしない。

国富論 (1)
アダム・スミス (著), 大河内 一男 (翻訳)
中央公論新社 (1978/4/10)
P25

P27
(1)前略~
ここでは、私人の「利己心」が東インド会社という独占会社の職員の性格として説明されているが、スミスはむしろ人間一般の利己的本性の抜きがたく深いものであることを「国富論」全体を通して繰り返し述べており、またそれがかえっておのずから一定の経済秩序を生み出し、無意識のうちに、社会の富裕の増大と適正な分配の秩序をつくり出すものであることを強調した。
分業も、交換も、節約も、蓄積も、みなこの利己心=自愛心に発するものであり、この人間性は、われわれが母親の胎内から生まれ出、墓場に入るまでの生涯にわたって、われわれの行動を左右するものだと、スミスは考えている。
利己的本性や憐愍の情ではなく、人間のこの利己的本性、自分の境遇を改善しようとする、人間に本来ひそんでいる常住不断性向こそが、経済進歩の起動力であり、またひろく社会生活における人間関係を規律していくものである、とスミスは述べるのである。 この点は、「国富論」に先立つスミスの著作「道徳情操論」(The Theory of Moral Sentiments,1759 )においてすでに明瞭に描き出されている。


 豊かになれば、人間というものは、歌舞音曲と恋愛と宗教にしか興味をもたなくなる。これは古今東西を通して歴史の法則であるといってよい。

殿様の通信簿
磯田 道史 (著)
朝日新聞社 (2006/06)
P252


P39
(1)貪欲―これは、過剰な欲求に駆られている状態です。平たくいえば、求めすぎ、期待しすぎ。焦りや、人間関係をめぐる不満は、たいていが、この「求めすぎる心」から来ています。
  自分に、他人に「求めすぎていないか」を、つねに気をつけたいものです。
貪欲に支配されると、自分自身が苦しいし、関わる相手も必ず不幸にしてしまいます。
  貪欲に駆られて求めすぎる人間は、本来力のなかった煩悩に負けて、さまざまな苦悩を背負い込む。あたかも自ら打ち破った舟の穴から、水が浸入してくるように。
P124
「自分が快を感じるかぎり、欲求も大切にしていい」と考えるなら、承認欲(認められたいという願い)も「活かし方次第」ということになるでしょう。
 たとえば「仕事で評価されたい」「人に感謝されたい」「ほめられたい」という願いがやる気を刺激してくれるなら、その欲求を否定する理由は、少なくともその人にとっては存在しないはずです。
 だから、もしくあなたの中に、やってみたい、チャレンジしたいことがあるなら、その欲求は大切にしてください。その動機が、仮に「おカネを稼ぎたい」とか「人より上に立ちたい」「競争に勝利したい」といった「煩悩」であっても、目指すことに「快」があるなら、大いにやってみることです。
 ただし―ここで一つの条件がつきます。というのは、欲求の満足が幸せにつながるのは、本人が「快」と感じる場合だけです。
逆に、もし欲が膨らみすぎて、「焦り」とか「不安」とか、「結果が出ない」「頑張っても認めてもらえない」という不満になってしまうなら、その欲求はいったん手放さないといけません。「苦(不快)を感じたら仕切り直しなさい」というのも、ブッダの思考法です。

反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」
草薙龍瞬 (著)
KADOKAWA/中経出版 (2015/7/31)


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